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竹田青嗣著「現象学は<思考の原理>である」を読む

このブログでは、さまざまな哲学書を読んでまいりましたが、本日ご紹介します竹田青嗣さんの「現象学は〈思考の原理〉である」は、これらをまとめて解説してくれる、なんとも便利な書物、との印象を受けます。本日は、本ブログの過去に扱いました種々の話題とリンクしながら、同書を読み進むことといたしましょう。

同書は4部構成でして、“I. 「思考の原理」としての現象学”で「現象学」をわかりやすく紹介した後、“II. 時代閉塞を乗り越える原理―現象学の射程”で社会問題への応用を検討いたします。次に、“III. 言語の現象学”で言語哲学への現象学の応用を語り、“IV. 「欲望論」原論”で竹田氏の十八番「エロス」と現象学の関わりについて議論いたします。

さて、フッサール現象学の何が凄いのか、という点ですが、私は、客観を「他者と共有された主観」であります「間主観性(相互主観性)」に置き換えることで、それまで問題となっておりました主客一致論争に終止符を打った、という点であると考えております。

この主客一致論争、といいますのは、絶対的な客観の存在を前提に、人の英知の向かう方向は主観を客観に一致させることである、との伝統的な考え方に対する異議申し立てから始まった論争です。養老孟司氏も「唯脳論」で書いておりますように、限りある人間の脳が考えられることには所詮限りがあるのですね。

でも、「客観」とは「他者と共有された主観」であるというなら、無理はありません。東洋の言葉では、「主の観方」であります主観に対し「客の観方」であります客観を対比しておりまして、最初から「他者と共有された主観」≒「客観」といった感覚があるのですが、西洋の言葉では「客観」は「オブジェクト」、すなわちわれわれの意識が向かう「対象」を「客観」と捉える考え方が支配的であり、人間の主観から独立な、ある種の絶対性を持つ概念と考えられておりました。これを東洋的見方に近づけたのがフッサールである、ともいえるでしょう。

ところで、主観を他者と共有することで普遍的な知識となる、ということに関しましては、古くはデカルトも触れておりますし、カントやポアンカレの書物にも類似した記述がみられます。学問上の新説など、最初は一人の学者が唱えた説(≒主観)が、世間一般の理解を得て定説(≒客観)となるわけで、主観の共有が客観を形成するという過程に類似したプロセスがあること自体は古くから知られておりました。

フッサール現象学の進んだ部分は、単に「間主観性」という概念を唱えた、ということだけではなく、その概念を厳密に規定したことであり、古い客観概念を間主観性に完全に置き換えた、という点にあるものと、私は考えております。これを可能とする厳密な哲学手法が「現象学的還元」でして、同書第 I 部の中心的話題となります。

竹田氏は、フッサールの主著「イデーン」を取り上げ、わかりにくいと文句をつけつつ、「現象学的還元」を説明いたします。同書の関連する記述をいくつか引用いたしますと、以下のようになります。

まず第一に言うべきことは、現象学的還元とは、要するに、「体験」あるいは「経験」一般を、「意識の経験」としてもう一度見直してみるという作業だ、ということです。(意識体験の取り出し)
……
この取出しが意味しているのはつぎのことです。すなわち、フッサールが「意識の本質」を把握せよというとき、それはつまり、知覚体験において誰にとっても「共通項」として取り出しうることがらを記述せよ、ということを意味しているのです。
……
「知覚」という体験の共通項を取り出す作業が、知覚の現象学的還元であり、「意識体験の本質」あるいは「意識のア・プリオリ」を把握するとは、すなわちそういうことなのです。

これはしかしどうでしょうか。竹田氏、「ところが『イデーン』をいくら読み進んでいっても、現象学的還元が何であるのか……これ以上ほとんど明らかになりません」といいながら、足りない部分を竹田氏流に補って作り上げたのが上の記述なのですね。

確かに、フッサールの現象学全体を通して「現象学的還元」でフッサールがやりたかったことは、竹田氏の記述するとおりの内容ではあるのでしょう。しかし、フッサールの「現象学還元」それ自体は、少々趣を異にしているのではないか、と私には思われます。

「現象学的還元」につきましては、以前の本ブログでご紹介いたしました同じフッサールの「ブリタニカ草稿」のほうが判り易いように、私は思います。そこで、「ブリタニカ草稿」のフッサールの記述から、「現象学的還元」とはどういうものか、みていくことにいたしましょう。

まず、フッサールは、「科学者の心とは独立した自然科学」に対応するものとして、「自然現象とは独立した心理学」を打ち立てんといたします。

生命的な実在は、さしあたってその基層を見れば、物理的な実在である。そうしたものとしては、生命的実在は、物理的自然の完結した連関のうちに所属している。この場合、物理的自然とは、第一の卓越した意味での自然であり、純粋自然科学の普遍的主題としての自然である。この純粋自然科学とは、どこまでも一面的な見方を貫いて、実在のもつ物理的規定以外の諸規定すべてを無視する客観的な自然科学である。……これに対して、生命的な世界は、むしろその心的な特性に注目してこそ主題にされるべきだとすれば、さしあたり次のことが問われることになる。すなわち、純粋自然科学との平行関係において、純粋心理学といったものがどの程度まで可能なのか、ということである。

なぜこんなことをする必要があるか、といいますと、例えば養老氏の「唯脳論」では、限りある人の脳で考えられることには限界がある、という結論は得られますが、そこから先に進みません。そもそも人の脳に限りがあるということを、人の脳自身が考えておりまして、堂々巡り的状況に陥ってしまうのですね。フッサールの「純粋心理学」は、逆のアプローチを試みよう、という企てであるわけです。

この作業(現象学的還元)は、外的なものを棚上げ(エポケー)して、経験なり知覚なりを「純粋に心的なもの」へと還元することで行われます。そして最終的に到達する境地をフッサールは次のように記述いたします。

自然的態度においては、世界はわれわれにとって、自明なものとして存在している<実在性の宇宙>であり、問われることなく眼前に存在しているものとしていつもあらかじめ与えられている。……しかし、理論的関心がこの自然的態度を放棄し、普遍的なまなざしの向け換えによって意識生のほうに向かうや否や、われわれは新たな認識位置に立つことになる。というのも、この意識生の中でこそ世界はわれわれにとってまさに「この唯一の」世界("die" Welt)であり、われわれにとって眼前に存在している世界であるからである。

こうして、二つの世界(認識位置)が分離されます。第一の世界は、自然科学が対象とする物理的世界であり、第二の世界は「われわれにとって『この唯一の』世界」、つまるところ、デカルトのいうところの「思う我(コギト)」の上に構築された世界、ということになります。

この二つの世界は、それを前にして人々が思いをめぐらす、その思考の基盤を異にする世界です。私流にいいますと、マンガを、セルロースに付着したインクのパターンとしてのみ捉えるのが第一の世界であり、物語としても捉えることを可能にするのが第二の世界、ということになります。この二つの世界、いずれが正しく、いずれが間違っている、ということではないのでして、いずれの見方も正しく、時と場合によって使い分ければ良いのですね。

この二つの世界を明瞭に区分したことはフッサールの大きな成果であると、私は思います。例えば以前の本ブログでご紹介いたしましたリオタールの「現象学」では、デカルトの思想はこの二つの世界の区分が明瞭でないと、次のように批判いたします。

思考するものとしての自我というテーゼは、すべての先見的な努力を水泡に帰せしめる。ここから、デカルトの二重の遺産が出てくる。一つは形而上学的合理主義で、これは自我を消し去る。もう一つは懐疑論的経験主義で、これは知識を破壊する。

この批判、バチカンの脅威にさらされていたデカルトの立場を考えますと、少々手厳しすぎるような感じもいたしますが、デカルトがこの部分を明瞭に記述していないことは事実ですから、いたし方ありません。

デカルトの記述を好意的に解釈すれば、この二つの世界をデカルトが意識していたことは明瞭に読み取れます。デカルトは外界に実在するものは物体の空間的広がりだけであり、その他の属性は人の概念として存在すると説きます。すなわち、好意的に解釈すれば、外界の存在と概念世界の存在という、二つの世界を認めておりますし、概念の他者との共有に関しても言及がなされております。

デカルトの問題は、この二つの世界を混在させてしまったことであり、心身二元論の祖、などという形で批判されることになります。上に書きました私流の二つの世界の説明におきまして、「セルロースに付着したインクのパターン」を第一の世界におけるマンガの実在である、などと書きましたが、実は、「セルロース」にせよ「インク」にせよ、人の概念上の存在なのであって、実際に第一の世界に実在するのは、人に「セルロース」などの概念を想起せしめる原因だけであるとしか言いようがありません。

実際問題として、第一の世界を直接に語ろうとすれば、それは「混沌」とでも呼ぶ以外になく、自然科学の議論にしたところで、第一の世界に非常に近いところでの議論ではあるのですが、第二の世界に属する「概念」をもって語る以外に道はないのですね。

少々長くなりました。楽天ブログの文字数の制限に引っ掛かりそうです。この先は、稿を改めて続けることといたしましょう。