本日読みます本は、マックス/ウェーバー著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」です。
資本主義の倫理問題に付いて考えております本ブログといたしましては、その表題をみただけでも、まずは読まねばならぬ一冊のように思われたのですが、少々分厚いことと、われわれから見ればどうでもよいような、プロテスタントの歴史につきまして、長々と記述がなされておりまして、なんとなく遠慮していたのですね。
ところが、涼宮ハルヒの驚愕もなかなか発売になりません。積読の一冊に手をつけざるを得ない、誠に不幸な状況と相成った次第です。
まず、マックス・ウェーバーは社会学者として名高い方で、宗教と社会の関係についても多数の論文、書物を発表されております。この本は、その魁として1905年に発表されました。この年は、アインシュタインが特殊相対性理論を発表した年でもあります。
以前のこのブログでご紹介いたしました「マックス・ヴェーバーとアジアの近代化」では、資本主義の精神は、自己の利益最大化を目的とする個人主義の上に資本主義が形成された、とされております。
今回の書物では、この考え方は少々修正が必要でして、近代的な資本主義の基底にはプロテスタントの「天職」概念がある、とウェーバーは説きます。
ただし最初に注意しておきますが、宗教的天職意識が資本主義発展の原動力になったのはその初期においてであり、現在では、天職概念の宗教的バックグラウンドは失われているとも述べております。すなわち、同書における「プロテスタンティズムの倫理」が資本主義に与えた影響は歴史的事実を述べたものなのです。
さて、分厚い書物ですから、最初からご紹介していてはこのブログの限られた文字数をオーバーしてしまいます。そこで、以下では、ウェーバーの下した結論であります、プロテスタンティズムの倫理がいかにして資本主義の精神を構成したか、という点に的を絞ってご紹介したいと思います。
ウェーバーの結論を引用しますと次のようになります。
ピュウリタンは天職人たらんと欲した―われわれは天職人たらざるをえない。というのは、禁欲は修道士の小部屋から職業生活のただ中に移されて、世俗内的道徳を支配しはじめるとともに、今度は、非有機的・機械的生産の技術的・経済的条件に結びつけられた近代的経済秩序の、あの強力な秩序界(コスモス)を作り上げるのに力を貸すことになったからだ。
……
禁欲をはからずも後継した啓蒙主義の薔薇色の雰囲気でさえ、今日ではまったく失せ果てたらしく、「天職義務」の思想はかつての宗教的信仰の亡霊として、われわれの生活の中を徘徊している。そして、「世俗的職業を天職として遂行する」という、そうした行為を直接最高の精神的文化価値に関連させることができないばあいにも―あるいは、逆の言い方をすれば、主観的にも単に経済的強制としてしか感じられないばあいにも―今日では誰もおよそその意味を詮索しないのが普通だ。営利のもっとも自由な地域であるアメリカ合衆国では、営利活動は宗教的・倫理的な意味を取り去られていて、今では純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果、スポーツの性格をおびることさえ稀ではない。
……
こうした文化発展の最後に現れる「末人たち」にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるであろう」と。
さて、引用部の最初の段落を理解するためには、キリスト教の歴史を振り返る必要があります。同書の記述の大部分も、この歴史と、これが精神に与える影響なのですが、この部分が実に長いお話となってしまいます。
で、これを誤解を恐れずに手短に記述いたしますと、宗教改革以前のキリスト教は、修道僧が厳しい禁欲生活をおくって神に近づき、その上に立つ教会が信者に救いを与える存在でした。悪名高い免罪符の販売などもその一環でして、平信徒の宗教的負担はさほど重いものではありませんでした。
しかしながら、ルターが宗教改革をいたしますと、教会の権威に枠をはめると同時に、信徒個々人に悔い改めることが要求されます。さらに、資本主義勃興の地を勢力範囲といたしましたカルヴァン派は、人々が救われるのかそうでないのかは神がすでに決定していることであり(予定説)、人々にできることは、己が救われているとの確信をもつことだけである、とまで主張いたします。
人々にとっての、己が救われているという確信は、「神の栄光を増すために役立つようなキリスト者の生き方」によって得られる、と説きます。この結果、次のような状況に人々は置かれるようになります。
カルヴァン派の信徒は自分で自分の救いを―正確には救いの確信を、と言わねばなるまい―「造り出す」のであり、しかも、それはカトリックのようにここの功績を徐々に積みあげることによってではありえず、どんなときにも選ばれているか、捨てられているか、という二者択一のまえに立つ組織的な自己審査によって造り出すのだ。こうして、われわれは本書の考察にとってきわめて重要な一つの点に到達することになった。
この「審査」とは、かつて修道院の中で行われていたような「禁欲」なのですが、一般社会でなされる禁欲こそが「天職」を全うすること。もちろん、天職といえども職業ですから、その結果としてお金が儲かります。お金を儲けることは、神の教えに従う行為であるのですね。こうして、資本主義の目指します利潤の追求は、宗教的にも認められることとなります。
ただし、お金儲けが良い行いであるといいましても、儲けたお金を濫用すること、豪勢な暮らしを追求することは、宗教上、厳に戒められます。これをホリエモンの例にあてはめますと、ライブドアで大いに稼ぐことは、神の道に適う行為であったのですが、下げマンと自家用飛行機で旅行するのは悪徳、ということになるのでしょう。なるほど、わかりやすい話ではあります。
さて、同書の紹介はこのあたりまでといたしまして、私の感想をいくつか書いておくことといたしましょう。
まず、資本主義の根底に「天職意識」がある、ということは、宗教的意味合いは薄れたにせよ、現在でも変わらぬ状況である、と私は思います。この場合の「天職意識」とは、自らのアイデンティティにつながるもので、経営学者のいう「企業のバリュー」に相当します。企業の社会的存在意義(理由)を企業のバリューと呼ぶのですが、個人も自分自身が、自らの属する社会からみて価値ある存在でありたい、と願うものなのですね。
このような意識は、宗教によってもはぐくまれることがあるのでしょうが、それ以外に、教育や、自らが属する集団、社会の文化によっても身についたり、つかなかったりするのでしょう。このような意識を成員がもつことは、近代的な効率的組織には不可欠であり、社会保険庁に代表されます、近年日本で問題となっております非効率的な組織は、その成員に天職意識(責任感)が欠けていることがそのような事態を招いた根本原因であると考えることもできそうです。
ウェーバーは、同書の最初の部分で、次のように述べます。
何らかの技能的(熟練)労働だとか、高価な破損しやすい機械の取り扱いや、およそ高度に鋭敏な注意力や創意を必要とするような製品の製造が問題となる場合には、低賃金はつねに資本主義の発展の支柱としてはまったく役立たない。こうした場合には、低賃金は利潤をもたらさず、意図したところとは正反対の結果を生むことになる。
なぜなら、こうした場合には端的に高度の責任感が必要であるばかりか、少なくとも勤務時間の間は、どうすればできるだけ楽に、できるだけ働かないで、しかもふだんと同じ賃金が取れるか、などということを絶えず考えたりするのではなくて、あたかも労働が絶対的な自己目的―Beruf(天職)―であるかのように励むという心情が一般に必要となるからだ。(段落と色付けは私)
今日の社会では、多くの職場で「およそ高度に鋭敏な注意力や創意を必要」としているのですね。このような職場にあっては、職員の側には天職意識が要求される一方で、経営者側には、職員を労働コストの面からのみ評価するのではなく、その責任感や注意力、創意工夫といったものを積極的に評価することが要求されるのでしょう。
最近の社会保険庁のスキャンダルを伝えるニュースを見ておりますと、上の引用部に赤で示しましたような意識を、職員のみならず、歴代長官までもが持っていた、との印象を受けます。これでは、「注意力や創意」の欠如が蔓延いたしましたことも、少なくともウェーバー的にはあたりまえの話であり、想像を絶する膨大な記帳ミスが発生いたしましたことも、うなづける話なのですね。
この部分のウェーバーの記述は、正社員を減らしてその分の労働力不足を派遣労働者で補おうとの昨今の風潮にも警鐘を鳴らしている、との印象を受けます。このようなことをいたしますと、確かに人件費は削減できるのでしょう。しかし、派遣労働者の天職意識は正社員に比べますと、相当に劣るものと思われ、多くの場合は、上の引用部で赤で示しましたウェーバーの言葉のような意識を持つのではないでしょうか。
これが、単純作業に従事するのであれば、さほどの問題はないのですが、高度な業務を遂行する際には、労働コストの低下以上に生産性の悪化が生じることも懸念されます。コストを考えるときは、常にパフォーマンスも考えなくてはいけない。このあたりまえのことが、多くの企業で、往々にして忘れられているのではなかろうか、という印象を私は受けております。
また、従来の労働運動が目指すところが、ウェーバーの引用部の赤い部分に近い境地であるといたしますと、これは少々問題であると思います。少なくともこのような行きかたは資本主義制度の中では企業を弱体化させ、衰退の道へと導きます。その結果、労働者自身も損をこうむることとなります。
古くは、高度な業務遂行は管理職に委ねられ、一般の労働者は単純作業に従事していたのですが、今日では、かつては単純作業が多かった古い産業分野ですら、オートメ化が進み、一般の労働者にも、高度な注意力が要求されるようになっております。
労働者の利益を代表する労働組合といたしましても、作業が楽になればよいという方向から、労働者自身の天職意識を満足させる施策を要求すべきでしょうし、会社側もこれに積極的に応じることで、利潤の最大化が図られるのではないでしょうか。
ウェーバーは、人々が天職意識をもつ背景に、教育をその一つの要因としてあげております。画一化が進む今日の日本の教育では、生徒一人一人のすぐれた点がなかなか見出しにくくなっておりますが、これでは天職意識ももち難く、人が職業意識に目覚めるのは就職した後の運任せとなっております。教育の多様化など、この分野でわが国がなすべきことも、多々あるように思われます。
スペースがなくなりました。まだ書き足りませんが、本日は以上といたします。