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納富信留著「哲学者の誕生」を読む

本日は、はるか昔のギリシャの人々に思いをはせることといたしましょう。ご紹介いたします書物は、納富信留著哲学者の誕生―ソクラテスをめぐる人々です。

1. ギリシャの三大哲学者

古代ギリシャの哲学者といいますと、ソクラテスプラトンアリストテレスの3大哲学者が代表格。彼等の思想は、当時の人々に受け入れられただけではなく、ギリシャからローマへとわたり、さらには西洋思想の礎となっております重要な思想。今日の哲学を論じる際にも、この3巨匠の考え方は、本来、踏まえておかねばなりません。

ま、それは建前。本日のところは、あまり重く考えず、同書にしたがって、プラトンとソクラテスの生きた時代の息吹を感じてみたいと思います。

さて、早速、本のご紹介とまいりましょう。第1章は「ソクラテスの死」。ドラマチックな場面から物語を始める、というありがちな手で来ました。しかし、ソクラテスが理不尽な判決に従って毒杯をあおいだのはよく知られた話、このテクニックが成功しているかどうか、私には疑問に思われます。

第2章「ソクラテスと哲学の始まり」で、著者の視点が明らかにされます。すなわち、従来の常識的見方とは異なる視点から、ソクラテスについて語りたい、ということが最初に述べられます。

まずは従来の視点、「ソクラテス以前」などという時代の切り方には根拠がない、と主張いたします。多数のギリシャ思想家の中に、ソクラテスも現れた、と著者は述べます。

その誤解が生まれました一つの原因でもあります、ソクラテス、プラトン、アリストテレスのみが今日注目されているのは、他の哲学者の著作が断片的にしか残っていないのに対し、プラトンとアリストテレスの著作は、その多くが今日に残っているためである、としております。ソクラテスの著作はないものの、プラトンをはじめとするソクラテスの弟子たちの著作の中に、彼の考えが記されているのですね。

もちろん、この3巨頭の言葉だけが後の世に残されましたのは、その内容が他に比べて優れていた、という要素はあるのですが、自然科学に近い内容を含む他の哲学者たちの書物が、後のヨーロッパを支配いたしましたキリスト教の教義と相容れなかった、という要因もありそうです(同書では否定しているのですが)。

第3章「ソクラテスの記憶」で、著者は自著を残さなかったソクラテスが3巨人の一人に数えられている、という謎に迫ります。その解答は、ソクラテスの教えを受けた人々が残した書物にあるのですね。ここに、「ソクラテス文学」というジャンルが誕生し、ソクラテスの影響を受けたさまざまな人の解釈するソクラテスの思想が後世に残されることとなりました。

2. ソクラテス裁判

第4章「ソクラテス裁判をめぐる攻防」では、ソクラテスが死刑判決を受けた背景に迫ります。この部分を引用いたしましょう。

ソクラテスが前399年に突然裁判にかけられた事情は、今日でも謎が多い。なぜこの時期に、何の前触れもなく裁判が始まったのか? ここには当然、当時のアテナイの社会や政治的背景が予想される。

裁判の5年前、ペロポネソス戦争に敗北したアテナイでは、危機を乗りきるためにスパルタを後ろ盾に寡頭政をしく「30人政権」が成立する。当初、市民の期待と喝采をあつめた30人政権は、やがて粛清と民主派の軍事的巻き返しにより、1年に満たずに崩壊する。アテナイでは前403年には、民主政が復活したのである。

で、寡頭政と深い関係をもっていた、とみられたソクラテスが狙われた、というわけです。

ソクラテスの直接の罪とされたのは、神の冒涜若い人たちへの悪影響。前者についてはよくわからないのですが、後者につきましては身に覚えがあるのですね。なにぶん、アテナイの市中での対話により哲学を教えておりましたソクラテス、若い人たちが妙に賢くなり、理屈をこねるようになった、という社会問題に、責任の一端はありました。まあしかし、このていどのことで死刑、というのはやりすぎのように思います。

この裁判の正当性に関しては、その後もアテナイで論議が続き、およそ6年後にポリュクラテスが『ソクラテスの告発』を発表いたしますと、議論が沸騰いたします。ポリュクラテスのこの著は、ポリュクラテスが自らの弁論能力を世間に見せつけるという、軽い気持ちで書かれた可能性もあるのですが、これに対するソクラテスの弟子たちの反論は熱を帯びたもので、反論の書が次々とでてまいります。このおかげでソクラテスの思想が今日に伝えられる結果となった、といっても過言ではありません。

3. アルキビアデス

第5章「アルキビアデスの誘惑」は一転、後に型破りの軍人として大活躍いたします生まれも高貴な美少年、アルキビアデスとソクラテスのボーイズラブに話題が飛びます。ソクラテスの罪状で、若者を堕落させた、というのがありましたが、その堕落した若者の一人がこのアルキビアデスであったのです。

それにしても、アルキビアデスの生涯はすごいですね。日本でいえば、源義経とでもいいましょうか。生まれも育ちも良いうえにルックスも抜群。ソクラテス仕込みの弁の立つ青年が、軍を率いて獅子奮迅の働きぶり。しかし本国との関係はしっくりせずに、亡命につぐ亡命。流浪の貴人となったあげくに、異郷の地で無念の生涯を閉じる、一大ドラマです。

もちろん、ソクラテスの教えを受けていたわけですから、プラトンその他の弟子たちとも交流があったはずですし、アテナイの上流階級との付き合いもあり、そのルックスの故、社交界ではご婦人方に追いまわされていたわけですから、豪華絢爛なドラマができそうです。

ま、NHKの大河ドラマにも充分可能なストーリーなのですが、多分NHKは嫌がるでしょうね。外国ものだし、ボーイズラブも少々問題。やるとすればフジテレビあたりでしょうか。主演はキムタクあたりが適任でしょうが、ソクラテスには、まあ、東京ガスのCMに出ていた人で充分かも、、、

しかし、理想をいえば、ここは少女マンガからアニメの路線、ではないでしょうか。どなたか、がんばってください。

4. 日本でのソクラテス評価

終章、第6章は「日本に渡ったソクラテス」と題しまして、日本社会でソクラテスがどのように受け入れられてきたかが論じられます。で、それが誤解だらけ、と。

まずは、「無知の知」がまったくの誤解であると。自らの無知を知ることが「無知の知」、なのですが、ソクラテスはそんなことを言ってはおりません。「無知」に「知」を対立するこの論理構造は、矛盾なり、循環論理に陥りがちです。ソクラテスの言っていることは、「知らないと思う」ということで、前後の組み合わせで4通りあるうちの一つがソクラテスの主張であると、著者は次のように述べます。

A 「知らないことを(そのとおり)知らないと思う」―――ソクラテス
B 「知らないことを(誤って)知っていると思う」―――世間の知者や一般の人々
C 「知っていることを(そのとおり)知っていると思う」―――(専門家)、神?
D 「知っていることを(誤って)知らないと思う」―――該当者なし

その他の誤解としては、ソクラテスの「悪妻」伝説。まあ、こっちはお笑いものなのですが、「悪法も法なり」も正しくはないと。毒人参のジュースを飲み干して、自ら、法に従って死を選んだソクラテスですが、その論理は遵法などといった単純なものではなかったとのこと。霊魂の不滅を信じていた70歳のソクラテス、自らこの世から去る道を選んだ、という要素もあったのですね。

あと、「痩せたソクラテス」というのも大いなる誤解で、ソクラテスは体格の良い男であったそうです。健全なる精神と健全なる肉体、ですね。「痩せた豚より太ったソクラテスを目指す」というのは、実は、本ブログの基本方針でもあるのですね。

5. 寡頭政と民主政

さて、以上が同書の内容ですが、以下、感想をいくつか。

まず、この本は、ソクラテスとその周囲の人たちとの関係を描き出すものであり、ソクラテスの思想の内容そのものにはほとんど立ち入っていません。まあ、ソクラテスの思想について知りたければ、プラトンなりを読めばよい、ということでしょうが、人間関係と思想内容とが無関係であるはずもなく、もう少し思想の中身に立ち入っても良かったのではないかと思います。

面白い点は、寡頭政と民主政の間の軋轢でして、ソクラテスは寡頭政の政府に協力はしたものの、基本的スタンスは民主政にあると、私は理解していたのですが、哲人政治を志向するプラトンが寡頭政に近い思想の持ち主。この間で、師弟の対立といったものはなかったのでしょうか?なにぶん、ソクラテスを後世に伝えたのがプラトンの書物であるだけに、この違いはどうして生じたのでしょうね。単なる私の思い違いかな?

もちろん、ソクラテスの時代に現実に行われました寡頭政が、為政者によります蓄財と、政敵を大量に処刑する粛清といった方向に走り、急速に民衆の支持を失ってしまいました。これにはソクラテスも抵抗をしたとのことですが、似たような話は現在にいたるまで続いており、結局のところ、民主主義がいくら非効率であり、移り気な大衆の誤った判断があったとしても、独裁よりはまし、ということでしょう。

それを目の当たりにしたプラトンが、民主政に否定的なのは、当時は、それほどまでに衆愚政治の弊害が蔓延していた、ということでしょうか。もちろん、恩師を死に至らしめた民主政に対する怒りなり、反省なりがそうさせたのかもしれませんし、たまたま自らの属する陣営がそうであった、という生臭い話であるのかもしれませんが、、、、

6. ソクラテスの懐疑論

その他、ソクラテスの懐疑論は、自らの知の限界を知る、ということで、このような考え方は今日でも重要であるとおもいます。懐疑論はデカルトからカントを経て、ヨーロッパ哲学の一つの柱として今日に至るまで脈々と続いております。あの合理主義の塊のようなファインマンでさえ、知識には限界があることを常に意識しなければならない、ということを語っております。

「無知の知」の部分に書きました4つの知の分類ですが、「知っていると思う」を「実在する」という言葉に置き換えますと、Bは以前のこのブログでご紹介いたしました「科学的実在論」となります。「実在する」と言い切る以上、「知っていると思」っているはずですから、この言葉の置き換えは理にかなうものでしょう。「科学哲学の冒険」の著者、戸田山和久氏の記述を見ますと、論理的には不完全な帰納法を完全視するところなどもあり、Bの立場そのものである、といわざるを得ません。

今日の科学哲学が絶対的な知を目指す傾向にありますことは、まことに違和感を覚えますし、その背景にある実在論も批判的に考察する必要があるのではないかと思います。このあたりにつきましては、以前のブログに書きましたので省略しますが。