少し前のこのブログで、竹田青嗣さんの「現象学入門」を読んだのですが、その中で、竹田氏が極端すぎるといたしますニーチェの「客観などない」とする主張を、私は妥当なものだと考える旨を記述いたしました。
1. ニーチェ入門
これにつきまして、もう少し考えてみよう、ということで、その竹田さんの書かれました「ニーチェ入門」を読むことといたしました。
ちくま新書、さまざまな思想家の名前に「入門」と付けました書名の本をいろいろと出しておりまして、手っ取り早く知識を得るには好都合なのですが、「ニーチェ入門」や「マルクス入門」などは、少々ギョッとさせられる題名の本ではあります。私など、この手の思想家に、そんな簡単に入門してしまってもよいものだろうか、などと考えてしまいます。
閑話休題、早速内容に入ることといたしましょう。同書はニーチェの思想遍歴と重要ポイントを押さえる形の、4章構成となっております。その各章につき簡単に内容をご紹介した後、私の考えを述べることといたします。
2. はじめてのニーチェ
まず第1章「はじめのニーチェ」ではニーチェの生涯をざっと紹介した後、ショーペンハウエルとワグナーに引かれた初期のニーチェとその作品を紹介します。
自らも音楽をたしなんだニーチェ、ワグナーにぞっこんほれ込んだのですが、「ニーベルンゲンの指輪」を聴いて熱も冷めた様子です。一方、ショーペンハウエルの厭世哲学は、若き日のニーチェを夢中にさせただけでなく、その後のニーチェの思想の方向を決めることとなりました。
ニーチェの初期の作「悲劇の誕生」は、理知にあふれた予言の神でありますアポロンに対して祝祭をつかさどる酒精の神ディオニュソスを対比してギリシャ悲劇を語った論文で、その二つの要素をともにもつという矛盾した存在が人間であり、その悲劇の元である、というわけです。
この悲劇から人を救うのは芸術であるといたしまして、ワグナーを大いに持ち上げるのですが、その結果、この論文は、あまりまともに取り合ってもらえなかった、というのですね。
この時代のニーチェのもう一つの著作、「反時代的考察」は、戦勝に浮かれる当時のドイツの精神風土の堕落を嘆き、人はもっと高みを目指すべきである、と主張いたします。これもまた、その後のニーチェ思想の中心であります「超人思想」へとつながってまいります。
3. 宗教批判
第2章「批判する獅子」では、著書「道徳の系譜」で利他的であれとするキリスト教を否定し、その背景が弱者のルサンチマン、強者への反目やねたみにあるといたします。またそのような弱者の心情をうまくコントロールしたのが僧侶である、というわけですね。
近代に入りますと、宗教は力を失い、自然科学がこの世の真実と考えられるようになりましたが、その真理といえどもあてにならない、とニーチェは説きます。竹田氏の解説では、つぎのようになります。
「真理への意思」は、要するに「絶対的に正しいものが存在する」という“信仰”を前提としている。近代科学も近代哲学も、この「絶対的に正しいもの=真理」を追い求めようとする情熱において一致する。そしてニーチェによれば、この“信仰”はキリスト教の「禁欲主義的理想」から生じたものなのだ。つまり近代的な「真理」への信仰は、キリスト教の理想の中で育て上げられたものだと言うのである。
4. 超人思想
第3章「価値の顛倒」では、ニーチェの思想の中心ともいうべき「超人思想」と「永遠回帰」について議論が進みます。
ニーチェが理想とする人間精神の高みに到達できるのは、一部の強い人間だけであり、その超人が他を訓育すればよい、というわけですね。これは、プラトンの「哲人政治」と同様の危険な思想である、ともいえます。
一方の「永遠回帰」は、理解困難な思想であるのですが、竹田氏の解説によりますと、これは、ニュートン力学が宇宙を支配しているとの考えをベースにしており、遠い未来において宇宙の物体が現在と同じ状態になれば、そこで起こることは現在の繰り返しにすぎない、というものであるといたします。
5. 権力への意思
第4章「『力』の思想」では、ニーチェの思想のもう一つの柱『力』の思想が解説されますが、これがまたえらくわかり難い概念である、というのですね。おまけにこの部分の竹田氏の解説も、同氏の十八番でありますエロスの哲学と入り混じっているかのごとき感があり、あまりはっきりいたしません。以下は私の解釈であることをお断りして、ご紹介を続けましょう。
まず、認識論的には、(1)事実それ自体などなく(2)あるのは解釈のみであり、(3)その解釈を支えるものは力である、という意味と解釈されます。このときの力とは、解釈する者の肉体的欲望にもとづいたものである、というのですね。
第二に、価値観も解釈の内にあり、それは力への意思に支えられている、といたします。そしてニーチェは次のように述べます。
何で価値は客観的に測定されるのか? 上昇し組織された権力量でのみである。(権力への意思)
と、いうわけで、ニーチェの思想は、一方において力次第でどうでもできる、というある種の危険思想であったわけですが、それがマルクス主義凋落後に登場いたしましたポストモダニズムのベースとなったことを竹田氏は批判いたします。つまり、ポストモダンの思想家は、正しくニーチェの思想を捉えていないのではないか、というわけです。
6. ディオニュソス的なるもの
以上が、同書のおおよその内容ですが、次に、ニーチェの思想に対する私の感想を少々述べることといたします。
まず、「ディオニュソス的なるもの」ですが、このような視点は、ロゴスとパドス、すなわち知性と感性の対立として、さほど特殊な考え方ではないように、私には思われます。ただここで、ニーチェは感性も重要視する、この点は記憶の隅にとどめておいたほうが良いと思います。
7. ルサンチマン
第二のポイントが「ルサンチマン」で動く大衆を蔑視すること。確かに、大衆の行動原理の一つに、妬(ねた)み、嫉(そね)みがありまして、洋の東西を問わず、出る杭は打たれる、ということも事実なのでしょう。
しかし、自然科学の研究にせよ、哲学思想の追求にせよ、これらはみな特殊な訓練をつんだ専門家が行う仕事であって、多くの人が理解してしまうようだと、科学者・哲学者の立場がありません。専門家というものは、どのみち、理解されないもの、とあっさり割り切り、「な~に、判る奴には判るのさ」と、居直るしかないように思うのですね。
それにしても、ニーチェ、俗物たちに相当に悩まされた、ということはあったのかもしれません。ニーチェは若くして大学教授になったのですが、こういった組織では、予算や場所の確保も必要な仕事でして、これを決めるキーマンが分らず屋だった、なんてことがありますとニーチェも相当に悩まされるでしょう。そんなことがありますと、権力への憧れをもつに至るかもしれません。このあたりは憶測ですが、、、
8. 真理か解釈か
第三に、「真理などない。あるのは解釈だけである」という点ですが、これは、竹田氏も書かれているように、今日の思想界では半ば常識、であるのでしょう。「現象学入門」での、「極端」とする竹田氏の意見は、この部分にあるのではなく、ニーチェの思想全体に対する考えであった、ということでしょう。
ただ、自然科学の世界では、今日なお真理を追求しているとの考え方が支配的であり、この点につきましては、今後の進展が望まれるところです。
さて、この「解釈」を肉体的欲求に結びつけたことが、ニーチェの特異なポイントでしょう。確かに人間を含む動物は、本能的欲求を行動のドライビングフォースとしておりまして、人の精神活動といえどもその例外ではありません。
ただ、大脳が異常に発達した人間には、大脳という肉体の一器官に起因する欲求があっても不思議はない、と私は考えておりまして、これが他の動物に比べて人間が異常な行動様式をとる原因ではなかろうか、と考えております。
この欲求とは、実験的小説「レイヤ7」で論じましたが、一つは、好奇心に代表される、情報をより多く集めたい、とする欲求でして、もう一つは、法則を探求するような、情報を整理統合したい、とする欲求です。この二つをあわせますと、資源有限の大脳により多くの情報を溜め込み、これを効率的にアクセスすることを目指す欲求である、と言えます。
9. 永遠回帰の真意
第四に、「永遠回帰」ですが、これにつきましては、ニーチェの本意は私にもよくわかりません。しかしながら、この世がニュートン力学に支配されていることを確信しての思想であれば、これは歴史が繰り返される、という以上の、人間精神に対する、決定的な否定であるように思われます。
なにぶん、ニュートン流の世界観によりますと、この宇宙のあらゆる物体は、ニュートンの力学に定められたとおりに動いているのであって、人間精神といえどもその例外ではない。つまりは、決定論、ということになってしまいます。
ひょっとしますと、この「永遠回帰」、竹田氏の書いておりますもう一つの理由、すなわち、ニーチェの破れた恋の思い出のなせる業、であるのかもしれません。
10. 物理法則と人間精神
それにしましても、ニュートンの打ち立てました物理法則が全ての宇宙を支配している、との考えは人間精神や価値観を否定するものであって、実は大変な問題提起なのですが、量子力学や相対論でニュートン力学が否定された後は、それほど問題視されておりません。
しかし、物理学の基本法則がニュートン力学から量子論、相対論に置き換わったところで、この問題の基本的位置付けは変わりません。つまり、物理法則は依然として全宇宙を支配しているのですね。
最近になりまして脳科学が進歩いたしますと、この忘れ去られていた問題に対し、再び関心が集まってまいります。すなわち、脳の機能、人間の精神的働きは、実は自然現象にすぎない、ということが明らかになってまいりまして、それを研究する行為も、実は自然現象、としかいえなくなってきたわけです。
こうなりますと、人間精神を捨象して形成してまいりました科学の世界が、人間精神を含んでしまうという、ニュートンの物理法則が全宇宙を支配しているのと、似た状況になってまいります。この問題につきましては、また稿を改めて議論することにしたいと思います。
11. 権力か知恵の力か
最後に「力」なのですが、これは「権力」と解釈されてしまいそうですが、果たしてそうなのだろうか、と考えますと、ここは少々難しい点です。
なにぶん、力、と言いましても、腕力から、政治的、経済的な力まで種々あるのですが、人を究極の高みに持ち上げるためにまさに必要な力とは、悟性の力、智慧の力なのではなかろうか、と私は思うですね。そういうことでしたら、さほど物騒な思想でもないのではないか、と思います。
世の中なんでも力次第、などといってしまうと身も蓋もないのですが、それが智慧の力であるならば、至極あたりまえの思想。ただ、食えないことには話になりませんから、ある程度の経済的な力も必要でして、結局のところ「太ったソクラテスを目指す」本ブログの方向性と似たようなものではなかろうか、などと気楽な結論に至った次第です。
最後に、同書48ページにあります、ニーチェが引用いたしましたソクラテスの言葉を孫引きしておきましょう。この言葉、ルサンチマンを買いそうですが、含蓄のある言葉だと思います。
ひとり知者のみが有徳である