自然科学は、「人とは独立に存在する事物」を対象にするのだという「自然主義的態度」に基づくと、一般に考えられております。
これに対して私は、「人間の存在とは独立に存在しているのは、人がそれを見たとき、特定の概念を抱かせる原因となる事物」であり、「自然科学は人が形成した概念の上に成り立っている」、とする考え方をこれまでのブログで主張してまいりました。
なにぶん、座標系といい、空間といい、質量といい、力といい、これらはみな人間精神が生み出した概念であり、その概念の元となっているものが自然界(人を取り巻く外界)に存在していることは確かであるのでしょうが、それ自体では名もなく、区別もない存在であるとしか言いようがありません。したがって、これらの概念を用いてなされる自然科学の言説は、人間精神の上に構築されている、とみなすことは至極当然であるように思われます。
また、自然科学をこのように考えることで、「科学は、人の知り得ないことを語り得ない」という原理が導き出されます。これは、人が知り得ないという前提があるなら、そこに概念が生じることもありえず、人はそれについて語ることはできない、という論理によります。
ただ、このような考え方は、科学が人の心次第、という、いかにも、あやふやなものである、との印象を抱かせる恐れがあります。そこで、本日は、科学というものはもう少し確かなものである、という点についてお話したいと思います。
まず、科学は普遍性を目指します。普遍性、というのは、誰にとっても、いつの時代でも変わらぬ真実であることを意味します。もちろん、科学の進歩にともなって真実と考えられる説は変化するでしょう。しかし、結果はどうあれ、学説は、普遍性を目指して唱えられたことだけは間違いないでしょう。
自然主義的態度を修正し、科学を人間が抱く概念の上に据えた場合にも、科学は普遍性をもちえます。これは、次の3つの理由によります。
まず第一に、人は同一の外界の中で生きており、同一の外界を、個々人が抱く概念の原因としております。私がある物体を前にして、そこにリンゴがある、と認識するとき、他の人も同じリンゴを見ていれば、その外界の事物は、その人に対しても同じ作用を及ぼすことが期待できます。
第二に、人というものは似通ったものである、という事実があります。これは、ヒトという種に属するかぎり、ほとんど同じDNAをもち、身体の構造も似通っておれば、生存に必要な条件も同じであり、同様の条件で快・不快を感じるという事実によります。
第三に、人の精神的機能は、生まれ育つ過程での他者とのコミュニケーションを通じて形作られたものであり、常識・文化を共有している、という点が上げられます。特に科学においては、教育の果たす役割が大きいでしょう。
この3要素は、個体の側からみたときの科学が成り立つ3要素なのですが、実は科学には、これを上回る、本質的に普遍的となる要因があります。
科学といいますものは、実は、上に書きました第3の要素が目標としております、人々に共有された常識・文化の一部として存在いたします。それは、単に一個人の精神の内部にあるのではなく、社会全体で共有された知識体系として存在します。
このような知識体系を担っているのは、人間の集まりであります社会、でして、人間社会はそれ自体がある種の知的機能を有しており、これが科学の知識体系を保持・発展させています。
これはたとえば学会活動や、出版、あるいは研究機関といったものを思い浮かべれば容易にわかることであって、社会の中のさまざまな組織は、その内部において、複数の人々が互いにコミュニケートして個々の概念なり現象に対する説明なりを共有し、発展させております。また、これらの組織(部分的な社会)も互いに結びついており、最も広いところでは、人類全体がそのような活動を続けております。
個体を超えた社会的な精神的機能といいますものは、人間固有のものではなく、たとえばアリの社会などでも、群全体が個体をはるかに上回る知能を発揮することが知られております。これは、「群知能」と呼ばれているのですが、同様な現象が人間社会で起こっているといたしましても何ら不思議はありません。なにぶん、人間同士の間では、アリよりもはるかに複雑なコミュニケーションが行われているわけですから、アリ等とは比較にならないくらい高度な精神活動が人間社会の上で行われている、と考えるのはごく自然である、といえるでしょう。
精神的機能に注目して、個人と社会の関係を考えますとき、個人が先にあって、これが結びついて社会が構成されている、といった単純な関係ではないように思われます。
人は生れ落ちてから成長するまでの間、常に社会との交渉を継続しており、人間社会が持つ知識体系を、個々人の精神的機能の中にコピーし、齟齬を修正する作業が継続的に行われています。社会が持つ知識体系を「客観」と呼ぶとすれば、人はその不完全なコピーを自らの主観の中に形成し、そのコピーの部分を「客観的知識」として認識しているのですね。
社会は単一の存在ではありません。科学の研究に携わる人々の社会をみますと、個々の研究者が所属する研究チームという最小の社会的単位から、そのチームが所属する組織、学術団体、国単位の学術社会、国際社会と、数多くの社会が層状に重なっております。
それぞれの社会が、それぞれに精神的機能を持ち、それぞれの社会が持つ知識体系は、社会内部に対しては「客観」として機能し、外部の社会に対してはその社会が持つ「主観」として機能するのではないか、と私は考えております。
そういたしますと、真に普遍的知識といえるのは、人類全体が共有するものであり、それが科学の目標、ということになるでしょう。そう考えるとき、科学が、その最下層においては、個人の精神内部に形成された概念に基づいているとしても、それはまったくあやふやなものではなく、確固たる知識体系となりえる、といえるのではないでしょうか。