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物理現象への科学者の関与

9日間の長い夏休み、あまりの暑さに庭仕事もできず、書物を読み漁る1週間でした。まあ、あの暑さの中、神保町やら図書館やらへと、歩き回ってはいたのですが、その結果、少々消化不良を起こしそうなくらいに本を読みました。

で、牛じゃあないのですが、読んだ書物を反芻する、なんてことを最近しております。ま、思い出し笑い、みたいなものですかね。

さて、表題の物理現象への科学者の関与、という問題ですが、以前のブログでご紹介したフッサールの「ブリタニカ草稿」には、こんな一文がありました。

物理的自然とは、第一の卓越した意味での自然であり、純粋自然科学の普遍的主題としての自然である。この純粋自然科学とは、どこまでも一面的な見方を貫いて、実在のもつ物理的規定以外の諸規定すべてを無視する客観的な自然科学である。

ここで無視されているものとしてフッサールが重視するのは、科学者の主観なのですが、通常はこれに加えて、科学者の個人的事情や研究室固有の状況が無視されます。これは、物理法則は普遍的でなければならない、という事情によるものでして、誰が、どのようなサンプル、どのような装置を用いて実験を行っても、一定の条件下では決まった結果が出なければならないことによります。

一方、先日より考察を進めております量子力学の観測問題では、無視したはずの科学者の関与が、再び現れてきます。それも、シュレディンガーのネコの問題では、科学者が知ったかどうかが決め手となるわけでして、科学者の主観までもが入り込んでしまいます。

これに対して、先日のブログで再読いたしました「精神と物質」でシュレディンガーは、自然科学を作り上げているのは、実は、人間の感覚である、という点を強調いたします。

同様な観点は、フッサールのいう「生活世界」が、実は科学の現場もそうである、とする主張にも見られます。

確かに、科学の研究は、個々の研究者が具体的な場で行うものであり、その場においては、特定の材料、特定の機器、特定の人々が存在いたします。

これを「概念」という観点から見ますと、研究の現場では、それぞれが個別概念で語られます。つまり、サンプルAとか、第二実験室の北側の測定器、とかを使用して研究が行われるわけです。

しかし、ここから得られた成果から物理法則を見出す際には、個別概念は捨象され、一般概念で語られなければなりません。つまり、化合物Xの特級試薬に電圧Yボルトを印加したとき、などの言い方をしなければいけないのですね。このように表現することで、どこの誰でもが、同じ実験を繰り返すことができ、新しい学説を検証することが可能となります。

そういう意味では、研究者個人も排除されなければいけません。つまりは、実験名人Z氏が行うとこうなります、などといってみても始まりません。一定の技術力さえあれば、誰でもどこでも再現できなくてはいけないのですね。

ところで、科学者の行為を自然法則の中に含めることが、ある場合には正当化されます。具体的には、ハイゼンベルグの不確定性原理のケースでして、観測に伴って対象に必ず外乱が加わる、という事実があってはじめてこの原理は成り立っております。

この場合、観測するのは、確かに個々の研究者ではあるのですが、誰がどこで観測を行っても同じように外乱が加わるのであれば、そのこと自体は普遍性を持つ、といえます。

しかし、ここで一つの疑問が生じるわけでして、観測を行っていない場合、その対象はどうなっていたのか、という点が問題となります。

このような問題は、あまり議論されていないように私は思うのですが、その答えは「わからない」としか言いようがないと思うのですね。

この「わからない」、確かに主観的な言辞であるようにも受けとられかねません。しかし、観測していないのだからわからない、というこの関係は、どのような人にも、どのような場合にもあてはまりますから、充分な普遍性を有する、と私は考えております。

以前のこのブログで読みましたポパーの「果てしなき探求(下)」で、ポパーはシュレディンガーのネコの実験に対するアインシュタインの意見を次のように引用いたします。

もしψ関数を[それによって記述される現実の物理的過程の]完全な叙述と解釈しようとすれば、……これは問題の瞬間において猫が生きてもいなければいささかも焼け焦げてもいないことを意味するでしょう。

もし[ψ関数の完全性に対する]この見解を拒否するならば、ψ関数は現実の事態を記述しているのではなくて、その事態についてのわれわれの知識の全体を記述しているのだと仮定しなければなりません。

ここで、アインシュタインが考えている物理学とは、「現実の物理的過程の完全な叙述」であるとするものですが、この理想は、不確定性理論が出てきた段階で、もはやあきらめざるを得ないのではなかろうか、と思われます。

むしろこの引用部でアインシュタインが述べております、「われわれの知識の全体を記述」したものこそが、物理学の、自然科学の、というより、およそすべての学問である、と私は思うのですね。

そもそも「現実の事態を記述」するといいましても、その記述を行う主体は一体誰か、ということを考えますとき、それは人間でしかありえず、人類の知識の総体こそが学問の全てである、とする考えこそが現実に対応していると思わざるを得ません。

と、なりますと、人の知りえないことがらに対して、人は「わからない」と言うしかなく、観測されていない対象がどうなっているかについて、確定的な議論はできないことになります。

とまあ、我田引水的ではありますが、「知り得ないことは語り得ない」という原理に付きまして、改めて確信を深めた次第です。