読もうかどうしようかと迷いました一冊、三浦俊彦著「論理学入門―推論のセンスとテクニックのために」を本日は読むことといたします。
1. 同書について
この本、前半が論理学の解説で、後半が応用問題としての「人間原理」を扱うものです。この後半をみまして、私、この本に読む価値があるか否かで躊躇したのですが、ざっと立ち読みしたところ、さほどヘンな本でもなさそうだ、ということで読むことにした次第です。
あらかじめ申しておきますと、ここでいう「人間原理」は、「宇宙は人間による観察を待っていた」という、トンデモな主張とは異なり、「宇宙を解釈する上で、これを解釈している人間そのものがいるということも考えなくてはいけないよ」という主張でして、そういう意味ではまことにもっともな主張ではあります。
さて、内容のご紹介とまいりましょう。
同書はIとIIの二部構成となっておりまして、単にI、IIのギリシャ数字だけが書かれているのですが、これでは収まりが悪いので、ここでは第I部、第II部、と呼ぶことにいたしましょう。で、前半の第I部が「記号論理学の基礎―ゲームの規則」と題する、論理学の解説に相当するところで、後半の第II部が応用問題であります、「人間原理の論理学―論理における『私』の位置」となっております。
2. 論理演算子
第I部ではまず、~(否定演算子「でない」)、∨(選言演算子「または」:論理和)、∧(連言演算子「かつ」:論理積)、⊃(含意演算子「ならば」)という4つの記号を用いて論理を表す方法と、これに関係する種々の概念につき解説いたします。
ここで著者は、「真」と「偽」の二種類の値だけをとりうる「ニ値論理学」に従う、と述べます。これは、私には少々不満なところではあるのですが、今日の論理学は、通常、二値論理に基づいておりますので、これはいたし方ありません。
少々判り難いのが、⊃(含意演算子「ならば」)でして、計算機プログラムにおきます論理演算では使用しておりません。これについて、少々みていくことにいたしましょう。
ここで、眉が釣り上がりそうな記述が出てまいります。「発言者の言葉がはっきり偽と言えない時にはなるべく真となるように解釈してやるべし」という「寛容の法則」というものが出てまいります。
これは、⊃(含意演算子「ならば」)に関係する話でして、P⊃Qの論理値は、PとQの論理値(真: T、偽; F)の組み合わせに対して次のように変化する、というのですね
P: T, Q: T →P⊃Q: T、P: T, Q: F →P⊃Q: F、P: F, Q: T →P⊃Q: T、P: F, Q: F →P⊃Q: T、
これはもちろん定義であるからこれでよいのですが、「寛容の原則」故にそうである、というのはなんとなくだまされたような気がいたします。まあ、「⊃」を「ならばが成立しないとはいえない」、という命題であると考えるなら、確かに寛容の原則に従っている、ともいえるのですが、、、
3. 不寛容なバスの乗客
そういえば、以前バスの中で「この扉は終点以外では開きません」と書かれた扉が終点で開かないことに文句を言っている乗客を見たことがあります。もちろん、この扉、終点で開くなどということはどこにも書かれておりませんので、この文句は筋違いです。終点以外で開いたら、そのときはじめて文句を言うべきところでしょう。
これを記号論理で書き表せば、扉に書かれております文言は、「(終点以外である)⊃(扉は開かない)」となりまして、この式が偽となる、すなわち乗客が文句を言えるのは(終点以外で扉が開いた)場合のみです。したがってそれ以外のケースでは、全て真、すなわち扉に書かれた言葉に反する事態は生じておらず、乗客はバスの運転手に文句をいえない、ということになります。
まあ、この乗客、少々寛容性に欠けていた、というわけですね。「寛容の原則」、ここは納得することといたしましょう。
4. ゼロは自然数か
さて、同書43ページに、0は自然数なのか、という著者の疑問が書かれております。これに対する解答は同書には与えられていないのですが、Wikipediaによりますと、0を自然数に含める流儀と含めない流儀がある、とのことでして、どちらを使うか、誤解のないように書かれているのが普通である、ということなのですね。
学校教育においては、0を自然数に含めない流儀で教育がなされているのですが、ここで少々問題なのは、「0を自然数に含める流儀もある」ということを教えないで、「0は自然数には含まれない」ということだけを教えている。これが著者の疑問の理由でもありますし、こんなことを教わった生徒たちも、将来困ることになります。つまり、「誤解のないように注記する」などといった配慮はできなくなってしまうのですね。
これにつきましては、今日の学校教育の、一つの問題であるようにも思われます。世の中にはいろいろな考え方がある、ということを一切教えず、正しいことは一つしかないとの盲信を生徒に植え付ける、悪しき流儀が今日の学校教育の場を支配している、ともいえるでしょう。全ては、教育を文部省の役人に任せたことの弊害。日本の将来を憂うしかありません。
5. 物理現象を支配する巨大な数字
閑話休題。前半はさまざまな記号論理の応用問題が続きます。これを読めば智慧もつこうというものですが、その詳細は無味乾燥でして、ここであえてご紹介することは止めておきましょう。気になる方は、同書を読まれることをお奨めいたします。まあ、この部分まででしたら、良いテキストは他にもいろいろあると思いますが、、、
さて、同書のユニークな点は、第II部の「人間原理」です。お話は10の40乗という巨大な数が物理現象のいろいろなところに顔を出す、という不思議な事実から始まります。この中には「宇宙の大きさ」なども含まれていたのですね。
この結果、時間の経過とともに、さまざまな物理定数も変化したのではないか、とポール・ディラックは主張します。このディラック、量子力学でノーベル賞をとっております、あのディラックでして、ヘンな学者ではありません。まあ、この説は、後にさまざまな観測により否定されてはおります。
6. 観測選択効果という人間原理
で、これにたいして、ロバート・ディッケは、「宇宙の大きさと電子の大きさの比」が10の40乗となったときはじめて人間が誕生できる環境が整う、という説を主張いたします。人間がいるからこのような説も唱えられるわけで、これを「観測選択効果」というのですね。このような考え方を「人間原理」とよびます。
「人間の視点と神の視点」と題する一節の以下の文章は、なかなかに含蓄があります(p151~)。
ディッケの提案の第二の重大な含意は、科学におけるコペルニクス革命を再び逆転させるかのような傾向を科学にもたらしたことである。天動説から地動説へ転換することにって、科学は、人間を宇宙の中心から追放した。人間は宇宙の片隅で塵が偶然に集まって生じたほんの取るに足らぬ現象にすぎない。宇宙にとっては人間はいてもいなくても影響のないちっぽけな渦のようなものだ。科学的世界観におけるこの脱人間中心主義は、ダーウィンの進化論によって決定的に確立した。人間は、神による特権的創造物などではなく、他の動物、植物、おそらくは鉱物と連続した、デタラメな進化の産物にすぎない。人間の自意識などは、大宇宙の客観的構造とは無関係である。
しかし、脱人間中心主義が極まると、逆の意味での人間中心主義が浸透してしまうことに注意しなければならない。客観的探求という虚構のもとで人間は、探求者としての人間自身を常に括弧に入れて、世界の外側に括り出すことになる。人間は宇宙を外から眺める客観的特権者となる。宇宙の中心から周縁へずれてゆきやがて消滅した人間の消失点が、神の視点となってしまうのだ。
本ブログでも何度か述べましたように、もちろんこれは科学者の勘違いでして、「探求者の人間自身を括弧に入れ」るのは、研究対象としての世界の中では正当化されるのですが、研究を行うのがほかならぬ人間であることは、忘れてはならないのですね。
さらに、これに宗教的な意味合いが加わり、宇宙の「目的」は人間を生み出すことであるといった「設計者としての神」の擁護論が出てくると著者は述べます。これは、著者も言うように、明らかに科学とは別世界の主張ということになりますが、一見論理的に見えるだけに、始末の悪い主張であるとも言えます。
7. 人間の登場によって姿を現した宇宙
この部分は、私の理解と少々異なりまして、私の理解によりますと、ホイーラーの提唱した遅延選択実験において、「事物は観測されることにより確定する」との実験結果が得られたことから、宇宙自体も観測されたことによりその姿が確定する、という推論が成り立ちまして、「宇宙がこのような姿をしているのは、それを観測する人間が登場したからだ」とする説(こちらも「人間原理」)が唱えられた、という経緯です。
もちろん、似たようなことをいろいろな立場の人が唱えている、ということは大いにありそうなことでして、宗教的な「人間原理」があったところで、全然不思議な話でもありません。
ちなみに、ホイーラーの遅延選択実験に始まります人間原理についての私の考え方は、「宇宙が今われわれが考えているような概念を持って語られるのは、われわれが宇宙を観測したからだ」というものでありまして、「人の認識とは無縁の宇宙それ自体は、ただそこにあるだけの存在、あえていうなら混沌である」というものです。
8. 物理定数と佐野厄除け大師
その他、物理乗数の比は10の40乗となるものが多い、という主張も、非常に怪しげな主張です。なにぶん、平方根をとったり二乗してそうなるものも含めておりますし、100倍程度の誤差は許す、としております。そういたしますと、10の19乗から21乗、38乗から42乗、76乗から84乗までが許されまして、任意の定数の組を選びますと、ざっと1/10程度の確率でこの範囲に入ってまいります。
で、数ある定数の中から、このような値の中にある定数の組を選び出せばよいのですから、その組み合わせは非常に多く(定数が10個しかない場合でも、これから2つを選ぶ組み合わせは45通り!)、この範囲に入ってくる定数の組も、相当数あるであろう、ということが予想されるのですね。
こういう話を聞くと、佐野厄除け大師の厄年が思い出されます。佐野厄除け大師の説明では、なんと半分程度の人が、何らかの厄年である、ということになっております。こちらは、まあ商売上手な、というだけなのですが、巨大数仮説のほうは、物理法則の主張ですから、これは少々問題がある、というしかありません。
9. 平凡の原理と宇宙人の存在
さて、人間原理と類似した問題といたしまして、「宇宙人は存在するか」という問題について著者は議論いたします。著者の主張は、宇宙に人間以外の知的生命体はいない、ということを「平凡の原理」から論証いたします。
それにしてはこの原理、少々おかしいように思います。なにしろ、「平凡の原理」に基づいて「人類は特殊である」との結論を導いているのですからね。「平凡の原理」というなら、「人類が存在する。それは平凡な存在であるはずだから、宇宙には多数の知的生命体が存在する」という論理も成り立つような気がいたします。
まあ、このあたりとなりますと、どうでもよい議論であるような気もするのですが、、、