このところ科学哲学づいているこのブログですが、最近、西脇与作著「科学の哲学」を読み始めております。
1. 同書について
この本、厚くて重くて高い本なのですが、2004年の初版発行と新しいことに加え、量子力学におきます観測問題にもかなりのページ数を割いておりまして、本ブログが主張しております「知りえないことを語り得ない」という原理を物理学の基本原理にすべきなどと言う以上は、まず押さえておかなければならない本である、と思われます。
ただ、この本、分厚い上に、著者の西脇氏が、スパッと結論を示してくれませんことから、なかなか読むのに時間が掛かります。とはいいましても、まず気になるところをチェックするのは当然のことでして、その結果につきまして、本日は簡単にご紹介しておきましょう。
こういう事情ですから、この先、同書を読み進むに従って、本日書きましたことが間違っていた、などということも起こり得ます。この点はあらかじめご容赦いただくこととして、ご紹介を進めましょう。
2. コペンハーゲン解釈を哲学的に言い換える
まず、量子力学のコペンハーゲン解釈を、西脇氏は哲学的に言い換えいたします。
1. 量子レベルで何が起こっているかを説明するより深い理論はない。
2. 量子的な世界では測定がなされるまではどんな事実もない。
3. 量子的なシステムについて二つの相補的な性質の値を同時に知ることはできない。
4. 量子的な世界は客観的な意味で確率的である。それぞれを、次のようにより「哲学的」に言い直すことができる。
1. 量子力学は道具主義である。それを使ってできるのは予測だけであり、何があるか、なにが生じているかはわからない。
2. 量子力学は実証主義的である。測定によって真偽がわかるときだけ、言明の真偽を知ることができる。
3. 量子力学は操作主義的である。与えられた実験で測定できるものに対してだけ値を考えることができる。
4. 量子力学は非決定論的である。測定結果を決定論的に予測できない。このようなコペンハーゲン解釈に対して、それを支える重要な原理である不確定性原理に関して次のような疑問が出てくる。
ハイゼンベルクの不確定性原理は実在それ自体の「鮮明さ」に対する制限なのか、それとも、私たちが実在について知ることができるものについての「鮮明さ」に対する制限なのか。
この問いは、量子的な記述は完全か、それともそれは不完全で、まだ記述されていない実在の「隠れた」側面があるのか、という問いと本質的に同じである。コペンハーゲン解釈の回答は、量子力学は完全であり、不確定性原理は量子的な実在それ自体の鮮明さに対する制限である、というものだった。この回答に反対するのがアインシュタイン、シュレディンガー、ボルンらで、彼らは量子的な記述は不完全だと考えた。では、いずれの見解が正しいのか。いずれに対しても強い反対があり、そのため、量子力学の解釈問題が重要となってきたのである。
測定によって起こる状態関数の崩壊も次のように解釈が分かれる。
(1) 世界事態の実在的な変化なのか、それとも、
(2) 世界についての私たちの知識の変化に過ぎないのか。(2)が正しければ、量子状態は完全な記述ではない可能性がある。というのも、測定によって既に真であることがわかるのであれば、それは量子状態によって与えられていた情報には含まれていなかったからである。
ずいぶんと長い引用になってしまいましたが、ここでいう「道具主義」は非実在論の一つで、「理論は何かの存在を主張するものではなく、道具に過ぎない」という考え方なのですね。
アインシュタインらは、物理学に人とは無関係に存在する世界の客観的な記述を求め、であるが故に量子論に反対したものと私は考えております。量子力学を主張する人達は、上記のような非実在論にたって論を進める一方で、物理法則に関しては、実在論に立って考える、という矛盾をはらんでいた、というわけなのですね。
ただし、量子力学が間違っている、などとは今日いえませんので、この間の調和をはからなければならない、というのが今日の課題でしょう。
3. 科学は完全であり得るか
これに関する私の考えを手短に書きますと、次のようになります。
まず、ド・ブロイ波、すなわち運動している粒子は波としても振舞う、という現象は、否定できない現象ですから、粒子を波動方程式で記述することは妥当である、といえます。この時点で、粒子は波動関数の形に姿を変えるのですね。
で、これが何かに衝突いたしますと、波動関数は収縮し、粒子が姿を現します。測定や選択などの、外乱が加わらない限り波動状態が維持される、と考えますと、シュテルン・ゲルラッハの実験は説明が付きます。
さて、シュレディンガーのネコの場合、波束の収縮は、放射線がガイガーカウンタを鳴らした瞬間に生じているものと、私は考えております。で、その後のネコの状態がわからないのは、伏せられたカードと同様、単に人がそれを知らないだけ、というわけです。
これは、量子力学的な乱数発生装置と、電気的な論理回路で構成された乱数発生装置で、ネコの実験を行ったとき、ネコの状態に差があるか否かを調べることで判別されます。ネコでは実験困難である、ということであれば、二枚のカードのいずれかを、双方の乱数発生装置で選択することで、その違いの有無を確かめることができるでしょう。
で、量子力学が完全か不完全か、という問いですが、私は科学は元々不完全なものである、と考えておりまして、それは世界に対する人類の知識の総和である、とみなしているのですね。
世界には人の知り得ないことも多々ありまして、それについて、科学は語りえません。ネコの生き死にに関しても、それを見ないということが前提となっている以上、誰も語ることはできない、というわけです。
ふうむ。なんでこんなことが問題になっているのか、だんだんと理解に苦しむようになってまいりました。まあ、この本につきましては、いずれ詳しく読んだ段階で、改めてご紹介することといたします。