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「ニールス・ボーア論文集」を読む

量子力学の観測問題に関しましては、このブログでも何度か議論してまいりました。現在多くの研究者が採用しているコペンハーゲン解釈の提唱者の一人でありますニールス・ボーアの主張は、岩波文庫の「ニールス・ボーア論文集(1)(2)」として出版されており、容易に読むことができます。そこで、本日は同書を読み、ボーアのコペンハーゲン解釈につきまして、少々考えてみることといたしましょう。

1. コペンハーゲン解釈

この問題に関しては、様々、解釈が行われているのですが、現在のところの主流は「コペンハーゲン解釈」。しかしこのコペンハーゲン解釈というもの、なかなか理解し難いものがあります。たとえば、以前ご紹介いたしました「量子の新世紀」で和田氏はコペンハーゲン解釈を以下のように解説しております。

コペンハーゲン解釈は、波動関数と実在との対応を完全に放棄した解釈論であった。すでに述べたようにそれは、「波の収縮」と「確率公理」から成り立っている。蛇足かもしれないが簡単に解説すると、

(1) 波の収縮:(点状の)粒子の波動関数は、一般に空間的に広がっている。しかしその粒子の位置を観測すると、どこか1箇所に観測される。その際、広がっている波動関数が瞬間的にその観測された位置に局在化(収縮)すると仮定するのが、コペンハーゲン解釈である。

(2) 確率公理:また波動関数をΨ(x)としたとき、xという位置に粒子が観測される確率が|Ψ(x)|2とする。つまり量子力学は現実を確率的にしか表現しないと考える。

これが極めて実証主義的な解釈論であることは言うまでもない。もしΨ(x)がそのまま実在に対応するものだとしたら現実と確率的な関係しか持たないということはありえないし、観測装置と関わっていない部分まで影響が及び突然収縮するというのもおかしい。

で、この解釈に従いますと、シュレディンガーの猫の実験において、観測される前の猫は波動関数状態にあり、観測された瞬間に生死が確定する、というわけです。観測される前の猫の状態を「生死が重なり合った状態にある」などといいましたことから、アインシュタインが拒絶反応を起こしたことはよく知られた話なのですね。

これらに関する私の考えを述べておきますと、波動関数は、要は確率密度を与えるものであり、ある点で存在が観測された結果、他の点での存在確率がゼロになることをもって「おかしい」というのは、少々外しているように思います。

これは、簡単な思考実験をしてみればわかることでして、当たりが1つしかない三角くじを配ることを考えてみれば一目瞭然なのですね。どこかに当たりがでれば、その瞬間に他の全てのくじが外れ、ということになりますが、このプロセスにおかしなことはどこにもないのですね。

さらに、シュレディンガーの猫が「生死重なり合った状態」という表現には少々驚かされますが、これが実は、「生死いずれの可能性もある状態」という意味に受け取るのでしたら、何らおかしな表現ではありません。なにぶん、蓋を開けるまでは、生きているか死んでいるかわかりませんので、いずれの可能性もある、としかいえないのですね。「重なり合った状態」、これは、量子力学に携わる人々一流の表現、ないし「方言(専門用語?)」であると考えることにすればよいのではないでしょうか。

ところで、「ファインマン物理学V量子力学」では「哲学的意味」という一節を設けて、量子力学の哲学的意味について次のように述べております。

量子力学の発展以来強調されてきたもう一つのことは、測定不能なことについて話すべきではないという考え方である。(相対論もまたこの点を強調している。)あることが測定によって決めることのできるものでないのならば、その事は理論のなかにはいる余地はない。
……
新しい量子力学が発見されたとき、古典的な人々は……次のようにいったのである。“みたまえ、君の理論には何もよいところがないではないか。なぜなら、君は粒子の正確な位置は何か、それはどちらの孔を通り抜けたのか、等々の問題に何一つ答えられないではないか”と。これに対するハイゼンベルクの答えは、“私はそんな質問に答える必要はない。なぜなら君達は、その質問を実験にもとづいて発することはできないのだから”というものであった。それはわれわれの答える必要のない質問なのである。

ファインマンは、これを有用性に結び付けて主張しているのですが、ここにおいて判断材料となっておりますものは、有用性ではなく、測定の可能性、つまり知ることができるか否か、が判別基準となっております。有用性を基準といたしますと、以前のこのブログでご紹介いたしました西脇氏が述べておりますように、量子論は「道具主義」である、ということになるのですが、測定の可能性を基準といたしますと、また別の考え方も成り立つこととなります。科学哲学なり実在論という立場からは、この判別基準がなんであるかが重要である、ということになりそうです。

2. ボーアの主張

コペンハーゲン解釈に関するボーアの主張は、第1巻の最初の論文「量子仮説と原子理論の最近の発展」に出てまいります。これは、1927年のコモにおけます国際会議で発表された講演を元にしたもので、このなかでボーアは、ハイゼンベルクの不確定性理論と結果的には同等の「相補性解釈」を主張いたします。

相補性といいますのは、微細な粒子が波動性をも示すことから、保存量(エネルギーと運動量)の記述と時間空間的な記述の双方を満足することはできない、という事実でして、ハイゼンベルクの不確定性理論、すなわち測定の技術的な問題からこれら双方の精度の積をプランク定数以下にすることはできないという理論、と同一の結果を与えるのですが、ボーアの相補性理論は観測云々を抜きにしてこの関係が成り立つとしたところに独自性があります。

ボーアはこの論文をつぎのような言葉で締めくくり、解釈を哲学者に委ねた形としております。これは、相対論と量子仮説を適合させるという局面を想定して述べられた形となっているのですが、実際に意識されているのは、アインシュタインと量子論の融和、というわけですね。

なによりもこの途上でゆきあたる障害は、いうならば、言語の全ての単語が私たちの通常の直観の形式に結びついているという事実にある。量子論では私たちは、量子仮説に固有の非合理性という性格が避けられないということを問題にするならば、ただちにこの困難に直面する。しかし私は、この事情は、本来的には、主観と客観を区別することにもとづく人間の概念形成における一般的困難に、深部で通底するものであり、相補性という考え方が、この事情を特徴づけるのに適しているのではないかと、期待している。

この短い文章の中で、ボーアは様々なことを語っているのですが、まず第一に「直観」という言葉一つを取り上げてみても、これは一筋縄ではいきません。なにぶん、「直観」という言葉からは、人間が生まれながらにしてもっている感覚、といった印象を受けるのですが、実は「直観」の大部分は人が学習によって身につけるもの。機械技術者は、エンジン音の微妙な変化からどのようなトラブルが発生したかを直感的に感じ取りますし、ベテランの営業マンであれば、顧客の言葉のわずかな変化から商談の行く末を直観で見通すことができるでしょう。物体には裏側があるという直観にしたところで、人は幼児の頃に学習した結果知っているわけで、これら全てが直観という言葉で片付けられております。

量子力学に慣れ親しんだ人は、おそらく量子論を直感的に把握しており、何ら不思議なことが起こっているなどとは考えたりしないかもしれません。量子力学の非合理性についても、微視的な世界ではそういうものなのだ、と一旦納得しさえすれば、それをいつまでも怪しむ理由はなくなります。

これをまた、主観と客観の区別、などと言い出しますと、話がややこしくなりますので、この議論は突っ込まないほうが良いように思われます。この部分、あるいはボーアが、当時活躍しておりましたフッサールやハイデガーの思想に触れて、そこに何らかの解決の道があると考えていたのかもしれません。しかしこれにつきましては、何らのヒントも示されておらず、なんとも言いようがありません。

(2017.2.13追記:主観と客観の問題に関しては、その後考察を深めて、このブログの「主観と客観:情報システムの中の世界」にまとめました。また同日、本記事の前編と後編を統合しています。)

3. アインシュタインへの語りかけ

この論文集、ボーアのアインシュタインへの語りかけ、といった風情がありまして、ボーアがいかにアインシュタインを意識していたか、ということがひしひしと伝わってまいります。そのボーアの思いを考えますとき、アインシュタインがその生涯を通して量子論を受け入れなかったことは、アインシュタインにとっても悲劇であったと思うと同時に、ボーアの心も大いに痛めたのではないか、と思う次第です。

同書では、アインシュタインの量子論批判として提出されたEPRパラドックスについても、多くの紙幅を割いております。この問題につきましては、これまでもこのブログで議論いたしましたが、実際のところは二つの問題から成り立っております。

第一の問題は、これまでに議論したような、波動関数を分割して測定することで、遠く離れた位置の状態が瞬時に定まるという、光速以上で情報が伝わらないという原理に反するパラドックスです。こちらにつきましては、これまでも議論いたしましたので省略いたします。

第二の問題は、二つに分割された波動関数(粒子)の一方の運動量を測定すれば他方の運動量も決定され、こちらの位置を正確に測定することで不確定性理論の限界は破られる、とするものです。第二の問題に関しては、全体を一つの系とすることで、やはり不確定性理論(相補性)は成り立っているのだ、とするのがボーアの解答です。波動関数を使った詳細な説明が巻末の解説部分に示されておりますが、これに関しましては省略いたします。

4. 3値論理と相補性

第12論文「因果性と相補性の観念について」とする短い論文で、ボーアは量子論に3値論理を導入することに対して否定的に言及しております。

従来から付与されてきたような属性を原子的対象にあてがおうとすれば、どうしてもあいまいさが付きまとい、そのことは物理的説明という問題にたいする私たちの見方の再考を促しているということである。この今までになかった新しい状況においては、自然現象の究極的決定性という旧来の問題さえ、その概念的基盤を喪失しているのであり、相補性という観点がまさしく因果性の理想の合理的な一般化として登場するのは、ほかならぬこの事情を背景としてなのである。

実際には相補的な記述の仕方は、説明というこれまでの要求の恣意的な断念を意味するものではなく、それどころか逆に、原子物理学における分析と綜合の現実的条件にたいする適切な弁証法的表現を意図したものである。付け加えるならば、ときには量子論の逆説的な特徴を取り扱う手段として提唱されてきた3値論理学に依拠することは、状況をより明瞭にする目的にはそぐわないように思われる。というのも、すべての確かな実験的証拠は、たとえ古典物理学の用語で分析することが不可能であるとしても、通常の論理学を用いる従来の言語で表現されるはずのものだからである。

この論文は1948年に発表されたものですが、以前のこのブログでご紹介いたしましたように、3値論理は1920年のウカシェヴィッチの発表後、1931年のゲーデルの不完全性定理で注目され、その後いくつかの論文が発表されております。

量子論には、測定の限界が含まれますので、確かに量子論にunknown、すなわち「不明」という値を含む3値論理を導入したくなります。しかしながら、量子論という、確立された科学的知識のなかには、もはや不明という状態はありえません。不明という状態を含みえるのは、実は量子力学の外部に関する命題を立てられた場合である、と私は考えております。このあたりにつきましては、いずれきちんとした形でご報告したいと思います。

(2017.2.13追記:この問題に対する現在の私の考え方は、不明という状態は必要である、とするものです。この問題に関しては、固定ページ「オリジナル文書」に置きました2007年11月10日に日本科学哲学会での口頭発表「観測問題を解決するための修正自然主義の提案」で述べましたが、人の知識は有限であり不明という状態を含めて考えなくてはいけない、とするものです。今日の自然科学が基礎としている素朴な自然主義は神の視座からの議論だが、人には知りえない事柄も多々ある、ということですね。)

5. アインシュタイン v.s. ボーア

第13論文「原子物理学における認識論上の諸問題をめぐるアインシュタインとの討論」は、なかなかの出色でして、アインシュタインが次々と持ち出します量子論を否定する思考実験にボーアがとことん付き合い、これをことごとく否定いたします。この思考実験が図解されているところが楽しいのですね。まあ、よくもいろいろと考えるものでして、名探偵と怪盗の対決を髣髴とさせる話ではあります。ま、アインシュタインが謎の怪盗紳士、ボーアが名探偵、といったところでしょうか。

この論文の最後の部分は、ボーアのアインシュタインに対する思いが切々と語られます。そして、ボーアの願いもむなしく、最後までアインシュタインが量子論を受け入れなかったという事実が、アインシュタインにとりましても、またボーアにとりましても、大いなる悲劇であったことを印象付けるのですね。この天才たちの思いのすれ違い、物理学の歴史にとりましても、重たいものを残していると思われる次第です。この部分、少々長いのですが、上巻ご紹介の最後に引用しておきましょう。

本稿のテーマであるアインシュタインとの討論は、何年にもわたり、その年月、私たちは原子物理学の分野における偉大なる発展を目の当たりにしてきた。私たちが実際に顔を合わせていたのは、短い時も長い時もあったが、アインシュタインとの会見はつねに深くて永続的な印象を私の心に残してきた。そして、この報告を執筆しているあいだ、私は、言うならば、アインシュタインとずっと議論しつづけていたのである。私たちが会っていたときに論じあった特定の問題とは一見無関係に思われる話題に立ち入ったときでさえ、そうであったといえよう。会話の記述にかんして、私は、私の記憶のみを頼りとしたが、それと同様に、アインシュタインがきわめて大きな役割を果たした量子論の発展の多くの特徴が、アインシュタイン自身には違って見えていたかもしれないという可能性をも、もちろん私は自覚している。それでも、私たち誰もが、アインシュタインと会うごとにインスピレイションを得ることができたのであるが、その恩恵が私にとってどれほど大きなものを意味したのかについては、公平な印象を伝え損なうことはなかったであろうと、私は確信している。

6. 認識論上の諸問題

続きまして、下巻にまいりましょう。このなかの出色は第18論文、「ソルヴェイ会議と量子物理学の発展」でしょう。ソルヴェイ会議はソルヴェイ法の発明で財を成しましたエルネスト・ソルヴェイが主催いたしました会議で、量子力学が成立した時期でもあったことから、この会議で量子物理学にかんする話題が盛んに議論されました。

ボーアのこの論文は、ソルヴェイ会議の内容を、回を追って紹介するもので、量子力学の進歩の跡を追うことができる興味深い内容となっております。アインシュタインとボーアの論争は1927年の第5回ソルヴェイ会議で盛んに行われたのですが、ボーアのこの論文では、この話題に関してはあっさりと述べるにとどまっております。

こちらの論文で注目すべき記述は、この第5回ソルヴェイ会議でのボーアの報告、「認識論上の諸問題」です。この概要をかいつまんで引用いたしますと、次のようになります。

主要な論点は、物理学的証拠を曖昧さなく伝達するためには、観測の記録だけではなく実験の設定も古典物理学の用語でしかるべく洗練された日常言語で表現されなければならないということにありました。現実のすべての実験では、その物体の安定性や性質にとっては作用量子が決定的な役割を果たしているにもかかわらず十分に大きくてしかも重たいためにその位置や運動の説明にはいっさいの量子効果を無視することが可能な隔壁やレンズや写真乾板のような物体を測定装置として使用することで、この要求は満足されています。
……
量子物理学ではまったく同一の実験設定でも一般にはいくつもの異なる個々の効果が観測されるので、統計に依存することは原理的に避けられないことです。のみならず、異なる実験条件のもとで得られ単一の像で理解することが不可能な実験的証拠は、見かけ上は矛盾しているにもかかわらず、併用することによって原子的対象にかんする確定的なすべての情報を尽くすことになるという意味で、相補的と見なされなければなりません。この観点からでは、量子論の理論形式のすべての目的は与えられた実験条件のもとで得られる観測にたいする期待値を導き出すことに尽きています。この点に関連して、矛盾がどこにもないということはその理論形式の無矛盾性によって保証されているのであり、またその記述がその守備範囲内で過不足ないということはそれが考えうるどの実験設定にも適用できることによって示されているということ、このことが強調されました。

と、いうわけで、第一に、量子力学といえども、実験装置は古典的なサイズの物が用いられるということ、第二に、観測される意味のある量は統計量であること、第三に、それが理論から導き出される期待値と矛盾しないことにより、量子論の正しさが証明される、というわけです。

これは、量子論は確定的な記述はできないが、それは確率を与えるという意味で正しい理論である、ということを主張しているわけですね。これが量子論の意義と限界を示している、と私は思います。これにたいして、「不完全である」とするアインシュタインの異議は、確定的な記述を要求すれば当然の異議であるといえるでしょうが、元々の量子論が確定的な記述を放棄する、微小粒子が波動性を兼ね備えるというド・ブロイの原理に立脚している以上避けられないことである、ということもできます。

もちろん、量子論に何らかの理論が加わって、アインシュタインも満足できる完全性(確定性)を兼ね備える可能性はゼロではありません。しかし、いまだそのような理論が得られていない現在、確率のみであっても、それは人々の知識の領域を拡大していることは事実でして、これを否定する理由はまったくない、と私には思われます。

まあ、アインシュタインの要求が少々厳しすぎた、ということですね。