以下、お酒を飲みながら、つらつらと思うことを記していきます。「付き合いきれん」という方は、この時点でウィンドウを閉じてください。
先に行った学会発表で、私の考え方を多くの方々にご報告することはできたのですが、どうもいまひとつご理解いただけていない様子でして、ここはもう一押しすべきではないか、と考えております。
この作戦はいくつか考えられるのですが、まずは定石的作戦から始動すべきではないか、と思うのですね。この作戦、つまりは、論文誌への投稿、ということになります。
まあ、口頭発表を行って、すぐに多くの方に受け入れてもらえるなどという甘い考えは最初から持ってはおらず、発表は次の手を打つための情報収集という意味合いに重点があったのですね。とはいっても、いい加減な発表では何の情報も集まりませんので、それなりに力を入れて発表しているわけです。
で、先日のブログにもれているもうひとつの失敗は、実は、観測問題というもの、あるいは、シュレディンガーの猫を正面から取り上げたこと。このテーマに関しましては、無数の素人談義が行われておりまして、これをぽんと出したのが今回の発表の大失敗であったのかもしれません。
今回の発表の趣旨は、科学哲学に対するもうひとつのアプローチだったのですが、観測問題を解決する、というポイントを、個人的には少々重要視しすぎてしまったのかもしれません。まあ、表題にも書いてしまいましたからね。
もちろん、観測問題が解決される、というのは非常に大きなポイントなのですが、このテーマは、無数の素人科学者が取り組んでおりまして、専門家には、「ああ、また出てきたか」という先入観を持たれてしまうテーマでもあるのですね。
と、いうわけで、次の作戦は少々からめ手から攻めることにいたします。で、設定いたしました主題が「試論:間主観性上の科学哲学」。これなら文句あるまい、といいたいところですがどうでしょうか。
ここで難しいのは、「現象学的科学哲学」とはいうわけにはいかない、という問題があるのですね。
「間主観性」は、実質フッサールが始めました「現象学」の一部として提唱されているのですが、現象学は「現象学的還元」をそのベースとしております。
現象学的還元というのは、自然科学が「主観を捨象して外界の事物を研究する」のに対し、「外界を捨象し主観を研究する」純粋心理学を打ち立てんとしたフッサール一流の方法論です。この純粋心理学、自然科学と美しい対称性を示しております。
しかし、科学哲学となりますと、そもそも外界の事物を研究するのが自然科学であるわけですから、これを捨象してしまうわけにもいきません。現象学的還元は、科学哲学とは折り合いが付き難いのですね。
しかし、主観を捨象する理由はありません。何しろ、自然科学といえども、研究者の主観の中に、少なくとも最初は芽生えるもの。自然科学の言説自体は主観を捨象するとしても、科学哲学に関しては主観を重視する理由は多分にあります。
さて、問題の間主観性なのですが、この言葉をフッサールが唱えておりますのは、実は、現象学的還元の直接的帰結ではなく、フッサールのもうひとつの柱であります「生活世界」の中でなのですね。
もちろん、外界を捨象して主観を分析していきますと、最後にたどり着くのが間主観性であることは確かです。なにぶん、「客観」を外界に定位することができない以上、それは共有された主観の中にしか見出しえないのですね。
しかし、フッサールは、このような厳密な分析結果よりも、よりあいまいな、生活世界の中に他者を見出し、他者と共有できる主観としての「間主観性」を新たなる客観として再定義しているわけです。
このような背景をみますとき、科学哲学を、このような意味での「間主観性」の上に構築することも十分に可能ではないか、との思いに駆られるのですね。
なにぶん、生活世界といいますものは、素朴な実在論の上に構築されています。つまりはフッサールが出だしにおいて否定してしまった「自然主義的態度」がそこにはあるのですね。で、必要なことは、その態度に修正を加えること。
それが何かといえば、「客観」は外界にあるのではなく、人々の心の内にある、ということなのですね。
意識の向かう対象である外界の実在(Object)と、真実と人々が考える「客観(Object)」の世界。これはまったく異なった世界なのですが、英語で言えば同じ「object」。この同等性をまず否定しないとまずいのですね。
で、情報という切り口で言えば、外界の持つ膨大な情報量の、ごく一部しか、主観は利用していない。で、その事情は、人類全体でもそうであり、文化なり、常識なりとしての「客観」においても事情は変わらないのですね。
まあ、そんな切り口から論文を書いて、まずは科学哲学学会を切り崩していけばよいのではなかろうか、などと、まるで信長の野望のごとく考えている次第です。
結構、良いお酒の飲み方でしょう。ま、自画自賛、ではあるのですが、、、