先日の朝日新聞に掲載されていたネトゲ未亡人、という問題がネット上でいくつか話題を呼んでおります。たとえば、これとか、これ(リンク切れ)とか、、、
まあ確かに、家庭を顧みずオンラインゲームに熱中するのは、少々問題である、ということは事実でしょう。しかし、人が何かに熱中できる、ということ自体は大事なことでもあるのですね。
一つ疑問に思うことは、これが「ネトゲ」ではなく、たとえば学問的な研究や、ビジネスや、芸事、あるいは同じゲームであっても、囲碁や将棋であったらどうであったであろうか、ということなのですね。
おそらくは、夫人の嘆きに同情する一方で、自らの興味の対象に没頭する夫の側にも、ある種の理解を示したのではなかろうか、と私は思うわけです。で、これを前提に考えますと、「ネトゲ未亡人」なる言葉の裏には、なにやら良くわからない「ネトゲ」というものを怪しげなもの、さしあたり敵視してよいもの、とする心情が背後に隠れているのではないか、という危険な兆候を私は読み取るわけです。
自分に良くわからないものを、さしあたり、忌避すべきものと考える。このような心情には、警戒してかからなくてはいけません。こういった考えが、異質な他者を敵視し、排除する社会を生み出すのですね。
このような考え方が、大は少数民族蔑視、外国人排除といった問題から、小はいじめの問題まで、今日の日本社会の様々なところで生じている問題の背景にあるのでしょう。
もしも私の危惧が当たっており、このような危険な心情が、一見良識的に見える朝日新聞の記事の背景にあるとするといたしますと、これは大きな問題であると思います。
このようなケースで他人を批判するとき、それが心を奪われている対象に対する冷静な分析こそがまず必要ではないか、と思う次第です。なにぶん、人が心を奪われるからには、それなりの理由があるはずであり、それが麻薬のような、単なる快楽を刺激するだけの反社会的なものであるのか、あるいは社会的な意義のあるものであるのか、という判断こそが、まずはなされなければいけない、と感じた次第です。
その分析をせずに、単によくわからないものを、とりあえず敵視し、排除しよう、とする姿勢は、大いに問題がある、と考える次第です。
そうそう、朝日新聞といえば、この書評(消されてしまいました)も噴飯ものです。なにぶん、「書いたものは残る」という書名に対して「なんともまっすぐで真理を突いたタイトル」ですからね。
この言葉、ネギま!の愛読者ならご存知の方も多いかも知れないラテン語の格言“Verba volant, Scripta manent”、ネギま!ファンサイトの日本語訳では「言葉は去れども、文字は留まる」、古風に言えば「書カレシモノハ残ル」を下敷きにしていることは、まず間違いのないところ。
この格言、ちょっと本を読んでいる人なら知っていそうな言葉でして、少なくとも人様の本を批評しようとする人ならば、この程度のことは知っていて欲しいところです。それを「なんともまっすぐで真理を突いたタイトル」などと書くのは、相当に恥ずかしいことだと思わなくちゃいけません。
あ、もちろんこの言葉、ネギま!以外の(ちゃんとした)書物にも、あちこちに出てきますよ。少なくとも言語を扱った書物で、ちょっと気取った書き方をした本であれば、この言葉がどこかに書かれている可能性はかなり高かったりいたします。