カントのプロレゴーメナを再読しております。
1. 問題の背景
「先験的主要問題」との表題の下におかれました第2部は「いかにして純粋自然学は可能か」と題されておりまして、先日来本ブログで議論しております科学哲学に近い話題が扱われております。
もっとも、「いかにして可能か」という問いかけ自体は、いわゆる「第一哲学」に属する話題であり、科学哲学の範疇の外、といわれてしまうかも知れないのですが、私は、この部分も科学哲学にとりまして重要なテーマではないか、と考えております。
なにぶん、科学哲学の基本的な部分を考えますとき、科学が何故に成り立っているのか、という議論は避けて通れないと思うのですね。
さて、この書物に関しましては、第一部の注2の部分につきまして以前のこのブログで取り上げました。本日は、もう少し先の部分を議論することといたしましょう。
2. 科学が可能であるカントによる説明
まず、カントは、経験から物理法則は導き出されなくてはならない、と説きます。しかし、単に経験であれば良い、ということではなく、これに悟性に基づく概念が付け加わらなくてはならず、概念を伴った形で経験されなければならない、として、以下のように続けます。(色は私がつけました)
経験的な判断は、客観的妥当性をもつかぎりにおいて、経験判断である。しかし、ただ主観的に妥当するだけなら、そういう経験的な判断を私は単なる知覚判断と名づける。後者はいかなる純粋悟性概念も必要とせず、思考する主体における知覚の論理的結合を必要とするだけである。ところが前者は感性的直観の表象に加えて、特殊な、悟性において根源的に生み出される概念をつねに要求し、そしてまさにこの概念が経験的判断が客観的に妥当するようにしているのである。
すべてのわれわれの判断は、まず単なる知覚判断である。つまりそれらはわれわれに対してのみ、すなわちわれわれの主観に対してのみ妥当する。そして、後になってはじめてそれらの判断にわれわれは新たな関係、すなわち客観への関係を与えて、いつでもわれわれに対して、まただれに対してでも妥当するようになるように求める。というのは、判断が対象と一致する場合には、その同じ対象についてのすべての判断はまた相互に一致しなければならず、そのようにして経験判断の客観的妥当性が意味するのは、その必然的な普遍妥当性にほかならないからである。
……
判断は単に知覚の主観への関係だけではなく、対象の性質を表現するとみなさなければならない。なぜなら、他人の判断も私の判断もすべてそれへ関係し、一致しなければならぬような、従ってすべての判断が相互に一致しなければならぬような、そういう対象の統一がかりになければ、他人の判断が必然的に私の判断と一致しなければならぬなんらの理由もないことになろう。
この引用部で、カントはいくつかの重要な主張を行っております。
まず、私たちが知覚するとき、単に知覚しているだけであれば、それは私の主観が知覚しているだけなのですが、「悟性」が生み出す「概念」がその知覚を客観的にする、というわけです。さらに、このようにして得られた客観的な対象の性質は、他人も同じように考えるのであれば、それは物自体が持つ性質である、と考えるわけですね。
3. カントの客観とフッサールの客観
さて、カントの引用を続けていると長くなってしまいますので、カントのご紹介はここまでといたしまして、この部分に関する私の考えを以下述べることといたしましょう。
まず、この部分から受けます印象は、カントのいう『客観』は、ほとんどフッサールのいう『間主観』と同等である、ということです。つまり、カントは「だれに対しても妥当する」、「普遍妥当性」を客観の要件としております。これは、共有された主観としてフッサールが客観を置き換えます「間主観性」となんら変わるところはないのですね。
もちろん、その背景は少々異なっておりまして、カントの普遍妥当性は「悟性」と「概念」が客観を支えるものとして提示されています。フッサールの場合は、主観の中に他者があり、その他者と主観を共有する、という形で間主観性を定義しており、この部分にカントの深みがある、ともいえるでしょう。
「概念」というのは、「言葉」と近い関係にありまして、人が社会的であるが故に他者と共有されるものです。ですから、概念の共有自体は、さほど特殊な主張でもありません。たとえば、「りんご」なら「りんごという概念」を人々は同じように抱いており、りんごを見かければ、それが果物であり、食べられるものであり、値段はこの程度、重さはこの程度といったことを、大多数の人が常識として知っております。また、他人がそれを知っていることを、まず、前提として会話をし、行動しているわけですね。
ただ、カントの場合は「悟性」を重視する点に特徴があります。論理的な首尾一貫性がなければ、それは客観的である、とはいえない、というわけですね。フッサールの場合ですと、いかに論理が破綻していようとも、すべての人々がそれを信じてしまえば、それは間主観性に妥当し、フッサール的には客観的である、ともいえますので、この点が異なります。
このいずれの考え方を受け入れるかは難しいところですが、現実を分析するうえではフッサール的客観を前提とするのが良さそうであるのに対し、いかにあるべきかを議論するうえでは、カント流の客観の方がすぐれているように思われます。
まあ、自然科学はなぜ可能か、と考えるのであれば、カント流で行くしかないかもしれません。なにぶん、論理的に破綻しておれば、それをいかに多くの人々が信じていようと、それは科学である、とはいえないでしょうからね。
4. カントと自然主義的実在論の近さと違い
ところで、上の引用部の最後の部分では、カントは人々が概念的に把握した部分を対象そのものが持つ、と主張しております。これは、科学哲学における実在論の主流であります、「自然主義的実在論」に近い考え方であるようにも読み取れます。
自然主義的実在論とは、外界の実在の上に、人々がそれに対して抱く概念や科学的な知識を貼り付けて、そういった知識と一体の存在として外界の実在をとらえる考え方です。私は、このような考え方は間違っていると考えております。なにぶん、外界の実在とは、人とは無関係に存在すべきものであって、人が見出した概念や法則と外界の実在とは切り離してとらえるべきである、と考えているからです。
ただ、カントのいう物自体、カントの言葉では「対象」ですが、これは「人と無縁に存在する外界の実在」という意味ではないように思われます。
カントは外界の実在を否定しないのですが、それはわれわれの知覚の彼岸にあり、知覚に影響を及ぼす存在として、実在する、と考えます。そしてわれわれの知りうるものは、知覚のこちら側、すなわち人間精神の内部に表れた外界の姿であります「表象」であるといたします。
そうであるといたしますと、カントのいう対象とは、人々の精神内部に形成された外界のイメージ、「表象」を意味するものであり、そうであるならば、これは人間の精神的機能の内部の存在ですから、そこにいかようにも、概念や法則を貼り付けることが出来るのですね。
もう少し正確にいいますと、人々がさまざまな概念を貼り付けておりますものは、表象に割り当てられた概念に対してであり、ある場合には個別のものに対応する個別概念にさまざまな概念、属性を貼り付けており、別の場合には、個別概念のテンプレートであります一般概念に、同様な貼り付けを行っている、ということでしょう。
5. 科学哲学のよって立つものは何?
こうしてみますと、今日の科学哲学が、一体いかなる形而上学(メタ・フィジックス)を基礎としているのか、良くわからなくなります。フランス流の、素朴な唯物論がその基礎にあるのでしょうか? しかし、こんな考え方は、とうの昔に否定されてしまったと、私は理解しているのですね。
もしかすると、今日の科学哲学は「プラグマティズム」上に構成されているのかもしれません。これは実は、形而上学(メタ・フィジックス)を、否定まではしないとしても、軽視する考え方であり、あまり深いことは考えない、役に立つかどうかを判断基準とする、という思想なのですね。
しかし、科学哲学として、科学のなんたるかを追及するのであれば、それが何に基づいているのかを考えることもまた大事なことであるのではないか、と思うのですね。
ま、他の人がやらないのなら、私がするだけのこと、なのですが、、、いかにそれをやるかという作戦、といいますか、これを人々に納得させるための具体的手段という部分が、なかなかに難しいこともまた事実、なのですね。
ううむ、、、