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カントにみる実在の概念

このところ、インド哲学を一時中断して、カントのプロレゴーメナを読み返しております。この本、よく読んでいきますと、目から鱗、という局面が多々あります。

本日感じ入りました点は、科学哲学がその対象としております、「人と無関係にそれ自体で存在する外界の事物、すなわち実在」が、少々あやふやなものということを教えられました。

と、いいますのは、上のような定義をしたところで、それを「実在」とみなしているのは人間の精神(カント流にいえば悟性)であり、「実在」それ自体が一つの「概念」なのですね。

カント流の言い方をすれば、人がああだこうだ言うからには、それは人間精神の内側の存在であるに違いなく、「人間とは無縁の存在」にしたところで、そういう概念を人間が考えていることは否定のしようがありません。

では、この世のすべてが人間精神の内部にあるのか、というと、さすがのカントもそんなことは言っておらず、人の感官に影響を与える外界の存在自体は、カントも否定しておりません。

ただ、人はそれを知ることができない、とカントはいうわけですね。人が知ることのできるのは、人の感官のこちら側。すなわち、表象、というわけです。

なるほど、これは一つの見識だし、この考え方を否定しようとすると、相当に大変です。

しかし、人と外界のモデル、というものであれば、人が想定することも可能なのであって、実はカントも、そうしたモデルを考えております。すなわち、感官の外側に言及できるのは、人という存在を離れた視点から、人と外界の関係を考察しているからにほかならないのですね。

ということになりますと、この考え方をさらに進めて、人と外界のモデルに関して考察を進めることは、それなりに意味がありそうです。

その場合鍵となるのは「情報」でして、情報を何が保持しており、どのようにそれが伝達され、何が情報を処理しているか、という観点からこのモデルを考察することで、カントの難しい言い回しも、より定量的に、技術的にも定義されるのではないか、と思う次第です。

その際、一つ重要なポイントは、情報処理を行う「系(the system)」なり、「主体(the subject)」なりはなにか、という点でして、私はそれが、「外界の実在」、「個人」、「人間社会」の3つの主要なシステムから成り立っているのではないか、と考えている次第です。

議論の中心が、オブジェクトからサブジェクトへと移っていきそうで、それはそれで面白い話の展開ではないか、という気もいたしております。