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カント入門、補足(「単純なもの」をめぐって)

先日のこのブログでは、カント入門を読んでおりまして、カントが設定いたしました4つのアンチノミー(二律背反、パラドックスに近い意味)に、私はけちをつけております。

その中で、単純なものの例として水を取り上げ、その複雑さを強調することで、万物は単純なものからなっているのか、すべては複雑であるのか、というカントの問題設定に問題があることを指摘いたしました。

ここで、水を取り上げました理由は、タレスの「万物は水である」との説を念頭においていたのですね。

タレスは、この複雑な世界を構成している基本的な要素は何か、と考え、「それは水である」という説に到達いたしました。

もちろん、現在の自然科学は、この説自体を否定しておりまして、水は酸素原子と水素原子から構成されることがわかっておりますし、これ以外のさまざまな原子もこの世界を構成する要素です。

しかし、世界のさまざまなものを、より単純な基本的要素で説明しようという、タレスのアプローチそのものは今日の自然科学に脈々と受け継がれております。

このようなアプローチを、おそらくカントは意識していたはずで、そういう意味からは、水を単純なものの代表とすることも妥当ではないか、と私は考えた次第です。

もちろん、単純なものの例を、原子としてもよければ、素粒子としてもよければ、クオークとしてもよいわけですが、これらもそれぞれの段階で複雑なふるまいをしており、とても単純である、とはいえないように思います。

結局のところ、カントのこの問いかけは、「単純とは何か」という定義をきちんとしなくては意味を失います。

単純なものも、実は複雑なふるまいをするのであれば、それを単純であるとみなすことが妥当であるか疑問ですし、そもそも単純なものから複雑なものが作られるのであるといたしますと、単純なものそれ自体の性質に複雑さが含まれているのではないか、との疑いを拭い去ることができないのですね。

前回ご紹介した例では、水は、たとえば雪の結晶にみられるような、きわめて複雑な振る舞いをいたします。これは、水の分子自体がもっている性質によるのですね。

水の分子といいますものは「へ」の字型をしておりまして、両端に水素原子が、中央の部分に酸素原子があります。で、それぞれの原子の最外殻起動にある電子は水分子全体に共有されておりまして、しかも、酸素原子付近での存在確率が、両端付近での存在確率に比べて高くなっております。

この結果、「へ」の字の両端の部分はプラスに、中央の部分はマイナスに帯電しておりまして、他の水分子と、プラスの部分とマイナスの部分が引き合います。この効果により、液体状態の水は、単一の分子として動き回っているのではなく、多数の水分子が結合した「クラスター」構造をとっております。このクラスターは、温度や流動状態により、さまざまな変化をするのですね。

さらに、純水中の水の分子(H2O)は、ごく一部が、水素イオン(H+)と水酸イオン(OH-)に分離しており、それぞれのイオンの周囲を他の水分子が取り囲む形となっておりますし、この分離も固定されたものではなく、時の経過とともに、きわめて複雑な挙動を示しているはずです。ま、このあたりになりますと、私にもよくわからないのですが、、、

雪の結晶に見られるあの多彩な形状も、温度と雪の結晶が成長する際の空気中の水蒸気濃度に左右された結果であるといわれておりまして、これらの外的環境と水分子の電荷分布とが複雑に関連して形成されたものであることは想像に難くありません。

これらの水の複雑な挙動は、つまるところ、水の分子が元々もっていた電子軌道が作り出したものであり、水の挙動の複雑さは、水そのものに原因があるといわざるを得ません。そうなりますと、水は単純な存在である、ということは非常に難しい、ということになります。

さらには、タレスの「万物は水である」という説を受け入れることとなりますと、「万物を作り出す」という、きわめて複雑な特性を水に求めることになり、水にはより複雑な性質が含まれていると考えざるをえません。

結局のところ、このカントの問いかけはなんであるのか、というそもそもの出発点が最大の謎である、ということになるのですね。

しかし、このあたりのことは、カントの時代にも相当程度わかっていたはずなのですが、何か別の意味があるのでしょうか???


ふうむ。プロレゴーメナを読み返してみましたが、これはひょっとすると、「カント入門」の書き方に問題があるのかもしれませんね。

カント入門によりますと、第二アンチノミーは次のようになります。

テーゼ:世界における一切のものは単純な部分からなる。
アンチテーゼ:世界における合成されたものは単純な部分からならない。単純なものは存在しない。

プロレゴーメナによりますと、次のようになります。

命題:世界におけるすべてのものは、単純なものから成り立っている。
反対命題:単純なものはなく、すべては合成されている。

プロレゴーメナのこの書き方であれば、これはよく知られた問題です。すなわち、言葉を反せば、ものはどこまでも分割できるのか、それとも、どこかまで分割すればそれ以上分割できなくなるのか、という問題ではないでしょうか。

このように問題を立て直せば、さしあたり、この問題に対する答えは得られます。すなわち、この世界に存在する物質(つまるところ素粒子)はレプトンとクオークから成り立っている、ということが現在の物理学でほぼ常識となっております。

ここで、レプトンが単純な粒子として存在可能であるのに対し、クオークを個々の要素に分割することは現実的にはできません。そのため、カントの問いに対する答えは、「世界におけるすべてのものは、単純なものと合成されたものから成り立っている」というのが正解であるといえそうです。

もちろん、概念的には(カント流にいえば、理性的、あるいは英知界においては)、個々のクオークに分けて考えることも可能であり、そういう意味からは、すべては単純なものから成り立っている、ということもできるでしょう。

また、クオークの内部構造(つまりは、より単純な構成要素の存在)というものは、現在のところは見つかっていないのですが、ない、と断言できるだけの根拠もなく、「この概念的な(理性による)解答は間違い得る」という、カント的な主張が正しいことも、また事実です。

いずれにせよ、自然科学(フィジックス)の対象としての世界は、古の哲学者が考える以上に複雑であり、形而上学(メタフィジックス)が自然学の成り立つ所以を問う以上、今日の哲学者は自然学の現在をきちんと押さえておかなければなりません。

それが十分になされていないことが、今日の形而上学の停滞を招いている原因であり、たとえばファインマンなどが哲学を馬鹿にする理由でもあると思います。

今日の学問のある領域に欠けた部分がある、ということは、悲しいことでもあると同時に、大変に喜ばしいことであり、つまりは、大きな成果につながりそうな研究課題がそこにあるということ。ま、金鉱脈を発見しました、というのと似たような話ではあります。