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曲がった空間の叙述法

曲がった空間の記述方法についての考察を続けます。本日は、「相対性理論の考え方」を大いに参考といたしました。

こういうことをしております目的は、一般相対性理論(アインシュタインの重力理論)をなるべく簡単に理解したい、ということが目的でして、時間・空間をどのように理解すべきか、という問題を追及する一環でやっているわけです。

空間とはなにか、時間とはなにか、という問題は、古今東西の哲学者の興味の対象となっているのですが、実は物理的な問題でもありまして、むしろ物理学が哲学者以上にこの問題に対する理解を深めている、というのが現状なのですね。

となりますと、哲学を語る際にも、物理学的にとらえた時間・空間に関しても、一応は押さえておかなければなりません。

で、本筋を少々離れた話なのですが、私はひそかに、時間は虚数的に振舞う、ということを基礎に据えたいと考えております。ファインマンは「たとえ無人島に一人流されたとしてもローレンツ変換の公式だけは忘れちゃいけない」というのですが、この要求は私には少々荷が重過ぎまして、「時間は虚数的に振舞う」という一言だけを覚えることで許していただきたいのですね(これは冗談ですが、物理法則は単純なものが良い、という美意識はあります)。

時間を虚数的に扱う、という方法は、特殊相対性理論の世界では正しそうでして、実際問題といたしまして、時間・空間の理解は特殊相対性理論で十分ですので、これ以上の詮索は不要、との気持ちもなきにしもあらず、です。

しかし、この前提に基づく理論展開が先の方で破綻していては困りますし、実のところ私はこの先の理論展開も、時間は虚数的に振舞う、としたほうがすっきりするのではないだろうか、などと考えているのですね。

これにつきまして、先週は少々フライングしてしまいましたが、今週は少しずつ理解を深めている、というわけです。

と、いうわけで本論にまいりましょう。

まず、アインシュタインの重力理論といいますのは、いうなれば「曲がった空間の物理学」でして、曲がった空間を扱う数学的手段を準備しなければ話が始まりません。

そこで、普通に用いております直交座標系に代わり「斜交座標系」というより一般化された座標系を用います。これは、3次元空間のベクトル表現であれば、互いに独立な3つのベクトルe1e2e3を考え、空間上の点xを三つの数字、x1、x2、x3を用いて、x = e1 x1 + e2 x2 + e3 x3 と表現する方法です。

ここで、e1e2e3基底ベクトルと呼ばれるもので、曲がった空間におきましては位置の関数で与えられます。つまり、これらは場所の変化とともに緩やかに変化するベクトルです。

座標とベクトルの対応付けの方法として、上に書きましたように、ベクトルを「座標を用いた基底ベクトルの線形結合で表す」というやり方があるのですが、実はこの他にももう一つの方法があります。これは、「ベクトルと、各基底ベクトルの内積をとる」という方法ですね。

内積といいますものは、二つのベクトルの長さの積にこれらのベクトルのなす角のコサインを掛け合わせたもので、xe1のように書き表します。この値は実は、ベクトルxe1方向の成分の大きさに、ベクトルe1自身の大きさを掛け合わせた値となります。

この方法で、ベクトルxの座標を x1 = e1x、x2 = e2x、x3 = e3xで与えることといたします。

ここで、最初の座標表示で添え字を上につけていたのに対し、後の座標表示では添え字を下につけて区別しているのですが、これは、以前もお話いたしました「反変」、「共変」の違いを意味しているのですね。

反変ベクトルといいますのは、同じベクトルを表現する際の座標の値が、基底ベクトルの大きさに反比例するものをいい、共変ベクトルは、逆に、座標値が基底ベクトルの大きさに比例するものをいいます。

確かに、前者の表現は、座標値と基底ベクトルを掛け合わせて和をとることでベクトルを表現しているため、基底ベクトルを倍にするなら、座標値は半分にしなければいけません。また、後者の表現は、座標値に基底ベクトルの大きさが掛けられておりますので、基底ベクトルが倍になれば座標値も倍になります。

さて、次にこれらの間の変換式を導くのですが、その前に、ベクトルをテンソル表現いたします。ベクトルx = (x1, x2, x3) = xiというわけで、最初がベクトルそのもの、二番目がベクトルの座標表示、三番目がテンソル表示、というわけです。ここで、ベクトルの座標表示とテンソル表示は、具体的な数値で表現できる代わりに、基底ベクトルのとり方によりその数値は変わる、ということにご注意ください。

これを哲学的にいうなら、ベクトルそのものは自然界の実在に対応しているのに対し、座標を用いる表現は人間精神内部の概念であるということ。なにぶん、自然界には基底ベクトルなど存在せず、人間が勝手に決めたものなのですね。従いまして、ベクトルの座標表示は自然界に属するものではなく、人間精神に属するもの。また逆にとらえますと、座標とは、ベクトルを数値という形に変えて、人の大脳が情報処理できるようにしたもの、というわけです。

閑話休題。テンソルの演算は、乗算される変数の添え字の上下に同じ記号が現れた場合、その記号を1から3まで変化させて乗算したそれぞれを加算する、という約束をもうけます。これは3次元の場合でして、4元時空を表す場合は0から3に変化させて和をとることはいうまでもありません。3次元の場合を式にしますと、xk yk = x1 y1 + x2 y2 + x3 y3 となります。

この記法を使いますと、基底ベクトルe1e2e3を用いた二種類の座標は、以下のように定義されます。(テンソル表現とベクトル表現がちゃんぽんになっておりますことは、大目に見てください。)
(1)    x = ekxk
(2)    xj = ejx
式(2)に式(1)を代入しますと、次のようになります。
(3)    xj = ejekxk = gjk xk
これがxkをxjに変換するための式でして、変換係数 gjk = ejek を計量テンソルと呼びます。また、式(3)は連立1次方程式ですので、これを解けば次式の係数 gjk が得られます。
(4)    xk = gjk xj

上付きの添え字が二つ付いた計量テンソルgjkと下付の添え字が二つ付いた計量テンソルgjkを示しましたので、上下に一ずつ添え字が付きました計量テンソルgjkを以下に示しておきます。
(5)    xk = gjk xj
これは、記号jを記号kと入れ替えるだけの作用を施し、値は変化いたしません。すなわち、gjkの値は、jとkが等しいものは1、異なるものは0です。このようなテンソルをδjkと書き、「クロネッカーのデルタ」と呼びます。

と、いうわけで「双対」などという概念を使わずに、斜交座標系と計量テンソルのお話をすることができました。

なお、反変テンソルと共変テンソルを使う利点は、これらの積をとることで基底ベクトルを消去することができることで、積の値は基底ベクトルの取り方によらない、つまり座標系によらない、元のベクトルにのみ依存する値となる点です。(明日のエントリー参照)

さて、問題は時間が虚数的に振舞うと考えるべきかどうか、ということなのですが、時間をあくまで実数として扱う流儀では、計量テンソルに細工を施しております。具体的には、ディラックは「一般相対性理論」の中で、空間軸kに対して xk = -xk、時間軸0に対して x0 = x0と、符号を逆向きにつけることで、xk xk = t2 - x2 - y2 - z2 となるようにしております。

空間が平らで直交(デカルト)座標系を用いる場合、計量テンソルgjkは、j≠kの場合に0、j = k = 0の場合に1、j = k≠0の場合に-1という値をとることといたしますと、上に書きました定義が成り立ちます。

これは一見うまいやり方のようにも思えるのですが、gjk = ejek という定義を思い出せば、このような計量テンソルを与える基底ベクトルejは時間成分であります e0が(1, 0, 0, 0)、空間成分でありますe1が(0, i, 0, 0)など(ここでiは虚数単位)となるように思われます。少なくとも、空間の等方性を前提とすれば、そうとしか言いようがないはずです。

しかし、座標を表す数値には虚数を取ることはできないはずです。虚数を乗じた基底ベクトルとは、いったい空間的にどちらの方向を向いているというのでしょうか? 結局のところ、このように基底ベクトルを定義することは、非常にまずいことであるように思われるのですが、実際のところはどうなのでしょうか。

もちろん、あのディラックがそうしている、ということは、これでも正しい、という理論的根拠があるのではないか、という気もするのですが、少なくとも、直感に訴える理解しやすいやり方(つまりはエレガントなやり方)ではないように思われるのですね。


2019.1.7追記:本件についていろいろ考えてみたのですが、基底ベクトルに虚数を与える方式は間違いではありません。空間成分に虚数を与え、時間成分に実数を与えるのはおかしい印象を与えますが、数学的には間違いではないのですね。

問題は、全てを実数で与える場合に、共変テンソルと反変テンソルの座標値の符号を恣意的に反転させている部分で、こうすることで虚数の扱いは不要になるのですが、基底ベクトルとテンソル表現との関係が遮断されてしまいます。

基本は、基底ベクトルの空間成分の係数を実数とし、時間成分の係数を虚数とする、といたしましょう。時間成分が虚数ということは、どちらを向いているのか、全然わからないのですが、もともと空間の内部で時間がどちらを向いているかなど、明示のしようがありません。

敢えて言うなら、時間成分は、あらゆる空間の方向と直交している。空間が実数で時間が虚数なら、この要請は自動的に満足されるのですね。

以下の私のクレームは、実数時間を採用すると基底ベクトルからの導出が困難、という部分に対するクレームであるという意味にご理解ください。


まあ、一つの言い方は、計量テンソルを用いて曲がった空間を記述する数学的手法は、純然たる概念であって、物理的な、自然界の事物とは無関係に、人間精神が定義したものである、という言い方はできるでしょう。数学者の立場では、これは正しい考え方です。

しかし、物理学というものは、あくまで自然の叙述であってもらいたいわけでして、外界の事物とは無縁の概念で論理を展開する、というのも少々妙な話です。そんなことを言うなら、時間が虚数である、というのも何の抵抗もないはずなのですが、こちらだけ大いに抵抗される、というのは一体どういう理由なのでしょうか?

時間が虚数的に振舞う、という前提であれば、x0 = i c t という変換に現れます虚数単位 i は、時間と空間の単位系の変換のための係数であり、光速といっしょに時間に乗じることに何の不思議もありません。それに、そもそも時間が虚数的に振舞うのであれば光速 c 自体が虚数である、とみなしてもかまいませんので、そういたしますと、あえてここに虚数単位を書く必要すらないのですね。

と、いうわけで、ここまでの範囲の考察におきましても、「時間は虚数的に振舞う」との前提を置くことは、筋の良いやり方ではないか、との思いを強めた次第です。


虚数時間の物理学、まとめはこちらです。最新のまとめ「虚数時間とファインマン氏の憂鬱」も、ぜひどうぞ。