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「未だ確定せざる過去」をめぐって

日曜日のブログで、入不二基義氏の「哲学の誤読」を読み、翌日、多少の追加をいたしました。追記部分は以下のとおりです。

ふ~む、その狩の成否が量子力学的擾乱によって左右されるものであるといたしますと、青年達が村に帰って結果を教えてもらうまでは、狩の結果は成功と失敗が重なり合った状態にある、ないしは、世界は狩が成功した世界と失敗した世界に分裂しているという見解もあるかもしれません。

少なくとも、シュレディンガーのネコの実験に対する、コペンハーゲン解釈なり、多世界解釈なりを受け入れるなら、このような理解こそが物理学的にも正しい理解です。そして驚くべきことは、この二つの解釈が、今日の量子力学者の世界では、支配的な二つの相対立する考え方なのですね。

つまり、過去も未確定、なんだ!

ま、私はどちらも、単に知りえないだけの話である(つまり、量子力学者の常識は誤っている)、と理解しているのですけどね。

ここで、狩の成否が量子力学的擾乱によって左右されると書きましたのは、量子力学的な揺らぎが狩の成否に影響している可能性を考えてのものです。

量子力学的揺らぎ、といいますのは、原子を取り巻く電子というものは、不確定性理論により、必ずしも一定の分布にあるわけではなく、時に応じて多少偏った分布をしております。

人間やライオンの頭にありますニューラルネットワークというものは、非常に小さな(ミクロン程度の)大きさをしておりまして、非常に多数(100億個程度)のニューロンそれぞれにあります数千個の接続部(シナプス)が情報の伝達に関わっております。シナプスの総数にいたしますと、数十兆という膨大な数になるのですね。このため、量子力学的揺らぎの効果が狩人やライオンの行動に影響を与える可能性もあるか、と考えたのですね。

しかし、良く考えてみれば、この世界で生じている現象は、すべて量子力学的な不確定性の上にあります。通常の物理法則が確定的であったとしても、宇宙の始まりでありますビッグバンにおきましては、量子力学的不確定性が支配的でありました。

したがって、その後の因果の連鎖が、すべて確定的に行われていたとしても、人が知りえない現象は、すべてシュレディンガーのネコと同様、量子力学的擾乱により決定された状態にあります。

もちろん現実的には、この他に、量子力学的な揺らぎに起因する不確定性が加わるのでしょうが、これで結論が変るわけでもなく、人の知りえないことがらは、すべてシュレディンガーの箱の中のネコ状態にある、とみなすべきと考えられます。

「『後の祭り』を祈る」における狩の例におきましても、狩に影響を与えているすべての因子を村人が知りえるはずもなく、狩の成否は、今日の量子力学者の常識に従う限り、量子力学的不確定性の中にある、すなわち、観測してはじめて事態が確定することとなります。

過去の事態がまだ確定していないことから、狩が終わってしまった、狩人たちが帰路にある時点で狩の成功を神に祈るのは、何の不合理もないのですね。

さて、シュレディンガーのネコが、「生死重なり合った状態」にあると解釈するのが正しいとしても、「世界が分裂した状態」にあると解釈するのが正しいとしても、ネコの生死が観測によって確定するといたしますと、宇宙もまた同様である、ということになります。

すなわち、宇宙の未だ観測されていない部分は、シュレディンガーのネコと同一の、さまざまな状態が重なり合った、未確定の状態にある、というわけですね。

これは、ホイーラーの「人間原理」そのものでありまして、「宇宙がこういう姿をしているのは人間が観測したからだ(奇しくもこれと同一のセリフを、(涼宮ハルヒの憂鬱DVD Vol.3 において古泉君が語っておりましたね)」というわけです。

さすがにホイーラーの人間原理に対しては、そんな馬鹿なはずはない、とする意見が多いのですが、論理的に考えれば、その結論が出てしまいます。少なくとも、この宇宙が始まりにおいて量子力学的な不確定性に支配されており、シュレディンガーのネコの生死が観察するまで定まらない、という二つの命題を真と認めるなら、ホイーラーの人間原理もまた正しい、というしかないでしょう。

このおかしな結論を避けるためには、シュレディンガーのネコの生死は、観察する前に既に決まっており、単に人がそれを知らないだけである、と考えるべきではないでしょうか。

そもそも外界の実在とは、人間とは無関係に存在するものである、とする見方が一般的であり、宇宙の姿は人が観測するかしないかに関わらず、ある決まった形をしている、とみなすべきだと思うのですね。

これを受け入れるならば、シュレディンガーのネコも、人が観察するかしないかに関わらず、ある時点で確定している、と考えるしかありません。

こう考えることの困難さは、量子力学の基本的な部分の修正を迫られる、ということではないかと思うのですが、これを面倒がるのも、科学の道にたずさわる者の態度としてはどうかと思うのですね。

具体的には、微視的領域での不確定さと、巨視的領域での不確定さを分けて論じる必要がある、ということです。そもそもハイゼンベルグの不確定性理論は、観測の技術的限界がその基礎にあったわけですが、巨視的領域での不確定さは、単に、未だ観測していないから、というだけの理由に過ぎません。

結局のところ、量子力学は三つの点で書き直しを迫られている、というところでしょうか。まあ、このブログでの私の考えによれば、ということなのですが、、、

その第一点は、これは明らかにおかしな点でありまして、測定ができない領域の不確定性と、観測をしていない領域での不確定性を分離して論じることでして、これは、私の第一原理であります、「科学は知りえないことを語り得ない」という原理を観測していない領域における不確定性にあてはめることで解決される、と考えております。

この部分の詳細につきましては、トップページに置きました「観測問題を解決するための修正自然主義の提案」をご参照ください。つまるところ、単に知らないだけの事に関しては、あーだこーだ言わずに、「知りません」というべきである、ということなのですね。

第二に、私の第二原理は、「科学は主体に関する事柄を論じることができない」というものなのですが、「観測により波束が収縮する」という量子力学者の常識は、この原理に反しております。知りえないことを「わからない」といえるなら、このような問題は生じないのですね。

これは、あたり前の話であるように、私には思えるのだが、、、

第三の点は、私の第三原理でありますところの「時間は虚数的に振舞う」という考えを導入して、理論の展開をわかりやすくしよう、という試みでして、これは前のものとは全然別の着想なのですが、どうせやるなら同時にやってしまいたい、と考えている次第です。かなり無謀な試みではあるのですが、、、

さて、話が複雑になってまいりましたので、このあたりで整理をしておきましょう。

まず第一に、外界の実在は、人とは無関係に存在するものであって、人間の知覚の原因となります。

このような外界が厳として存在していることは、人が「普遍妥当性」というものを考えることができるのがその証拠であると私は考えております。誰しもが同じように考える「普遍妥当性」がありえるのは、人が同じ外界の中に生きているか、あるいは、人の精神間に何らかのつながりがあるかのいずれかしかありえません。

人の精神間には、コミュニケーションが成り立っていることは事実なのですが、これが普遍妥当性をもたらすほどの完全なものではないことが現在の大問題です。これは特に、宗教や文化の部分で混乱が生じているのですね。

で、外界の実在に関わる部分では、人は普遍妥当性に至り易い、つまり、太陽や月の存在に関しましては、多くの人が同じように考えておりまして、そのような傾向が生じる理由は、外界の実在こそが普遍妥当性の源である、人は同じ外界を生きているが故に外界に対しては同等の概念を抱き易い、と考えるのが妥当であるように私は思うのですね。

さて、そのように厳として存在する外界ではあるのですが、人はその外界のすべてを知りえるわけではなく、感覚器官を通して外界から得たわずかな情報を元に、それぞれのニューラルネットワークの中に「概念」を形成し、これを用いて自然界を理解しております。

これはカントが唱えた説ですが、脳科学の発展いたしました今日におきましても、このように考えるのがまさに妥当です。このあたりは、カントの先見の明を褒め称えるべきであると私は思います。

で、理解すべき自然界は、「外界の実在」に対応するものである一方、理解した結果は人の精神の内部に形成される「概念」を用いて記述されます。

ここが科学の立場を非常に難しくするところで、まず第一に、科学が外界の実在を扱うことから、科学の対象に主体を含めてはならず、「人が観測したら」などという条件を科学の対象に含めてはいけません。また、第二には、科学は人間精神による外界の記述であることから、人の知りえないことを科学が語ることは許されず、「観測しなかったときのネコの状態」などを議論するのは間違いである、と言えるでしょう。

もう一つの面白い視点といたしまして、科学は概念を用いて外界を記述する、ということでありまして、記述に使用する道具は人間精神の内部にあります概念である、という点です。言語も数学も人間精神内部の概念であって、実数虚数の別も人間精神内部の問題に過ぎないのですね。

だから、自然界を叙述するのに、虚数を使用した方がエレガントに記述できるのであれば迷わず虚数を使用すべきであって、「自然界に虚数など存在しない」などという理由はどこにもないのですね。そもそも、数という概念が人間精神内部の存在であり、自然界には自然数すら存在いたしません。

まあ、量子力学の世界となりますと、虚数の出まくり、ではあるのですが、、、ありゃりゃ、いつの間にか、いつもの話になってしまいましたが、話を元に戻しましょう。

と、いうわけで、量子力学の今日の常識に従いますと、物理学的にも過去は未定であり、シュレディンガーの箱の中のネコの生死は観察されるまで未定だし、宇宙は人間が観測してはじめて姿を現す、ということになるのですが、私の主張では、この考えは誤りであって、外界の実在は、人間とはかかわりなく、何らかの姿をしている、というわけです。

一方、人間にとって意味があるのは、人が知りえた世界であり、その範囲に科学もあるのだし、その他もろもろの社会的現象も人の知りえる世界の中で展開されている、というわけです。

だから、「『後の祭り』を祈る」という行為は、外界の実在という意味では無意味な行為であっても、人間社会においては意味のある行為である、というのが、ずいぶんと長い話になりましたが、日曜日のブログに追記いたしました部分に関する解説(私の本音)、です。


虚数時間の物理学、まとめはこちらです。


本論における実在論は、「非カント的実在論」であることにご注意ください。この実在論、基本的部分で見直しが必要ですが、今日の科学哲学の基礎である「素朴な自然主義」の基本的考え方ではあります。