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貫成人著「真理の哲学」を読む

本日読みました本は、比較的最近の2008年2月10日、ちくま新書の一冊として出版されました、貫成人著「真理の哲学」です。

1. 真理の哲学

同書は、かつては人間と独立にあると考えられておりました「真理」に対する考え方の変化を扱った書物でして、登場いたします哲学者は、主役級がニーチェフッサールメルロー・ポンティフーコーの4名、後日談にはフレーゲ、ラッセル、ヴィトゲンシュタイン、ライル、オースティン、クワインなどなどが名を連ねております。

これらの哲学者は、さまざまな書物で紹介されており、このブログでも過去にいくつか取り上げたことがあるのですが、哲学者の思想を紹介する本といいますと、まず、これを肯定的に紹介するだけで、その思想内容に対する批判的な分析がほとんどありません。

人類の歴史においてさまざまな思想が現れては消えるその背景には、それぞれの思想の優れた部分と同時に至らぬ点もあったと思いますし、それらの思想の今日的な意味を考察するためには、その問題点を分析し、今日的意義を改めて問い直す必要があるのではないかと思います。

そういう意味では、過去の哲学者の思想を紹介するだけの書物は、博物館のような、古い遺品を愛でるためには価値があるのでしょうが、今の世の中を考えるためには、そのままでは使い物にならず、これらの書物を批判的に読み下すことで、はじめて意味を持つのではないかと思います。

「真理の哲学」を読む前に同書に私が期待したのは、従来の書物と異なり、真理に対する概念がいかに変遷してきたか、という視点でこれらの哲学者の思想を読み直す、という点にあったのですが、どうも今ひとつという感じがいたします。

そこで、本日は、同書をご紹介するだけでなく、同書が扱っております「真理とは何か」という点につきまして、考えてみたいと思います。

2. デカルト・カント・ニーチェ

まず、同書は扱っていないのですが、真理に対する批判は、デカルトに始まるのではなかろうか、と私は考えております。デカルトは、外界の実在を疑い、疑う我の存在からすべてを構築しなおそうとしたのですね。しかし、デカルトは、彼の思想を深める過程で神の実在を証明(?)し、ここから議論を展開させてしまいます。これでは最初から何を疑ったか、わからなくなってしまいます。

カント(これも同書の範囲外ですが)も批判哲学を展開し、われわれが抱いているさまざまな概念は、我々自身の内部にあるものであって、外界の実在とは異なると主張いたしました。外界の実在に対する扱いに関しましては、カントの思想は現代に通じます。ただ、倫理に関する部分は「定言命法」、すなわちわれわれが考える以前に与えられている、といたします。

カントにとっての真実とは「普遍妥当性」、すなわち誰にとりましても受け入れられる概念です。同様な考え方は、デカルトも(一言だけですが)触れておりますし、後の時代のポアンカレも同様な基準を考えておりました。

カントの次に位置すると私が考えておりますのが同書にありますニーチェでして、カントの主張を多少極端にいたしました「外界などなく、あるのは妄想だけである」と述べるとともに、カントの定言命法の部分も、「畜群道徳」として切り捨ててしまいます。

カントは神の首を切り落とす」とハイネは形容し、ニーチェは「神は死んだ」と宣言いたします。

3. 現象学が到達した地平

一方、フッサールの現象学は、デカルトの「思う我(コギト)」を引き継ぐ形ででこの思想を論理的に厳密な形で発展させます。フッサールの現象学的還元におきましては、外界に関する事柄はすべて捨象(棚上げ:エポケー)され、主観の領域を掘り下げる形で分析をいたします。

こうなりますと、「真理」などどうなってしまうのだろうか、という心配はあるのですが、まず、フッサールも手法自体には、カントと同様に、普遍妥当性を要求いたします。もう一つには、主観の中に現れた他者を通して、他者と共有された主観、すなわち「間主観性」の中に「客観」を再定義いたします。

間主観性上に構成される客観とは、普遍妥当性とほとんど同じ概念であり、そういう意味では、「絶対的真理」という考え方が失われる一方で、「普遍妥当性」に基づく真実概念という考え方は脈々と保たれているように、私には思われます。

「真理の哲学」には、この普遍妥当性に関する議論が欠けておりますのが、少々片手落ちではなかろうか、との印象を私は受けました。

4. 万能薬の不在

同書で、フッサールの次に紹介されておりますのがメルロー・ポンティですが、これには多少の違和感があります。メルロー・ポンティは、フッサール現象学の後継者と目されている方なのですが、主観の分析をゲシュタルト心理学に求めた結果、主観の分析というよりは、現象学が本来棚上げしたはずの、外界(客体としての人間心理)の分析になってしまったように、私には思われるのですね。

同様な違和感は、同書でときどき出てまいります「複雑系」にもいえることでして、すべての根底にある本質的な原理を否定するなら、複雑系もまた否定されてしかるべきではなかろうか、と思う次第です。

次に登場いたしますのがフーコーで、誤解を恐れずに簡単に言ってしまえば、ニーチェの思想を深めた形で総まとめを行った、ということでしょう。正気から狂気へと向かったニーチェに比べますと、フーコーは狂気から正気へと帰ってきた、対照的な哲学者ではあります。

ニーチェやフーコーは、彼らが否定した「真理」が真理とされてきた社会的背景を解析し、これを批判したもので、「真理」そのものを目指してはおりません。彼らの否定にかかわらず、「普遍妥当性」に基づく真理は、彼らの批判とは無縁のところで生きつづけている、とみなすべきではなかろうか、と私は思う次第です。

5. ポストモダン的な真理否定の哲学

と、いうわけで、同書の主要部分をざっと見てまいりましたが、これは「真理の哲学」というよりは、「真理否定の哲学」とでも題すべきではなかったか、という気がいたします。真理について議論するというよりは、かつて真理とされたものがいかにに否定されてきたか、ということを述べた書物である、というのが本当のところでしょう。

で、フーコーもその系譜とされておりますポストモダニズムの悪癖、批判だけして進むべき道を示さない、という傾向がこの本にも認められまして、私には少々好きにはなれません。

たしかに今の時代は、大いに混乱していることは事実なのですが、一応真実と認められるものはあります。それが何であって、何故に真実とされているのか、という点について踏み込みませんと、「真理の哲学」というには少々片手落ちであるように思います。

まあ、この本は「真理を否定する哲学」について書かれた本だ、と割り切って読む分には、さほど悪い書物ではないのですが、、、

6. 真理は普遍妥当性にある

さて、少しスペースがありますので、「真理」に対する私の考え方について、簡単に述べておくことといたしましょう。

まず、人間社会において「真理」とされているのが、誰もがそれを真理と認める「普遍妥当性」にある、ということに関しては、今日の多くの思想家が共通して認めるところであり、私もこれは間違っていない、と考えております。

これは「真理とは間主観性上の客観である」ということと同じ意味なのですが、現象学は現象学者の言うほどには、現代思想界の常識ともなっていないようでして、この言い方は限られた範囲でしか受け入れてもらえません。

この普遍妥当性に、何らかの本質的根拠を求める考え方は根強く存在するのですが、このような考えは間違いである、という主張も支持したいと思います。

この世の原理とされます本質的根拠というものは、ニーチェにおけますルサンチマン(ねたみ心)のような、特定の状況におかれた人々の願いと思惑が作り出すものであり、特定の集団はこれを強く信じるのですが、異質な集団に属する者とっては何ら信じるに足る根拠をもたず、コミュニケーションの断絶と社会の混乱を招く原因となってしまいます。

一見科学的に見受けられる、「複雑系」や「身体性」なども、すべてを説明する本質的な原理であるといった考え方に発展いたしますと、いかにも怪しげな思想であるように、私には思われます。

一方、ある種絶対的な存在であります「外界の実在」は厳としてある、と私は考えております。この主張は不思議な印象を与えるかもしれませんが、実は「外界の実在」の存在それ自体は、カントもフッサールもはっきりと認めております。

7. 情報源としての外界の実在

「外界の実在」は、否定したはずの「絶対的な真理」と、どこが違うのか、という疑問は、ある意味当然の疑問であるともいえます。そこでこの点につきまして、以下、詳しくご説明いたしましょう。

まず、「外界の実在」は、人間精神が受け取るさまざまな情報の源泉ではあるのですが、それは純粋な意味での情報であり、価値観や善悪を含むものではありません。その情報を概念化し、意味を見出し、あるいは法則性を見出すのは人間精神の働きであり、「真理」とは人々の精神の中に構成される概念の一つです。

「真理」とは、人々が知りえた外界に対する概念から構成されるもので、その中でも多くの人々に支持され「普遍妥当性」を獲得するに至った概念が「真理」とされる一方、外界の実在は人々の知覚の彼岸にあって、知覚に情報を与えるソースである、という構造になっております。

人々が同じ外界を共有しており、外界から受け取る情報は、その源を同じうしている、という意味で、外界は真理の源である、ということは言えるでしょう。しかし、真理は人間精神の内部に形成された概念であり、外界の実在とは別の存在です。

さらに、「真理」は、社会的に形成される普遍妥当性という意味で、人間社会という一つの精神的主体の内部に形成された概念とみなすこともできます。これは、個々人の主観の外部にある存在ではあるのですが、外界の実在とは異なる世界に属します。

8. 宗教の真理性

さて、宗教的概念について、多くの人々は絶対的概念として捉えており、外界の実在すなわち神である、といった考え方すらあります。しかしこれは何も語っていないことと同義であり、意味のない思想です。

実はあのデカルトですら、「神は属性として実在する」と述べておりまして、「延長」としての外界の実在とは別物である、と考えていたようなのですね。この属性とは、人々の心の中に形成される概念であり、神は人間精神内部の存在である、とみなしていた様子です。

デカルトが実のところ何を考えていたかにつきましては、今ひとつはっきりしないのですが、神ないし宗教的概念が人間精神の内に構成された存在である、という点は、うなづけるものでして、まさにそのようなものとして神は存在する、という主張は自然科学とも何一つ矛盾いたしません

まあ、それが全地球規模で普遍妥当性を獲得いたしますと、宗教的概念も「真理」といえるのですが、現時点では特定の集団内部でのみ有効な「真理」に止まっているのが実情であり、私といたしましては、宗教的概念を「真理」と呼ぶことはできない、と考えております。