マックス・ヴェーバーという人は社会学の大家でして、その主著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」につきましては以前のこのブログでもご紹介いたしました。
今回ご紹介いたします山之内靖著「マックス・ヴェーバー入門」は、ヴェーバーの思想に従来とは多少異なる観点から解説を加えたものですが、微妙な話題を扱っているわりには、非常に読みやすい書物となっております。
最初に同書の結論をご紹介いたしますと、ヴェーバーは資本主義の根底にプロテスタンティズムの世俗世界における禁欲主義があることを明らかにしたのですが、決してこれを理想的なものと見なしていたのではないというのですね。
むしろ彼は、ニーチェに近い、「ディオニュソス的なるもの」、すなわち人間本来のもつどろどろとした心情を重視し、これに英雄的に向かい合う姿を理想的と考えたというのが同書の主張です。
ニーチェが「悲劇の誕生」で述べました「ディオニュソス」は、「ソクラテス」に象徴される知性と対になる概念でして、負ける戦いはしないのがソクラテス的な生き方であるとすれば、負けるリスクを犯してでもあえて戦うのがディオニュソス的生き方であるといえばわかりやすいでしょうか。
以下、本の内容紹介は程々といたしまして、ここでは私の感想を書くことといたしましょう。本の内容にご興味のある方は、実物にあたっていただくのが一番かと思いますし。
ヴェーバーが活躍いたしました19世紀の終わりから20世紀の初頭という時代は、人類の歴史、特に人類の知性の歴史にとりまして、実はものすごい時代でした。
それ以前は、ニュートン力学が絶対的な真実であると信じられ、真の知識を広めることを善とする、啓蒙の時代が続いていたのですね。その時代の代表的な哲学者がカントであったわけです。
しかし、この時代になりますと、ニュートン力学の矛盾に世の物理学者の関心が集まり、ついには相対性理論と量子力学の登場によりニュートン力学の絶対的真実性は否定されることとなりました。
一方、この時代に起こった大事件がロシア革命で、来るべき時代は共産主義の時代ではないか、との思想が世に拡大し始めた時代でもありました。ロシア革命にはわが国も多少の関与をしておりまして、実は1905年は日露戦争勝利の年。これがロシア革命の一つの要因となったことはよく知られた事実です。
実は、20世紀の終わりから21世紀のはじめにかけてという時代も、これに似た時代と後世では考えられるようになるのではないか、と私はひそかに考えております。実はこの時代、情報技術が瞬時の内に世界に拡大した時代であるとともに、共産主義は終焉する一方で米国の軍事支配力にも陰りがみえ、先進国におけます経済成長の鈍化により行政機構が経済的に行き詰まり、官僚制の弊害が誰の目にも明らかになる時代となっておりました。
今回は未だ、思想面での大きな変化は生じていないのですが、いずれ何らかの新しい哲学が登場し、この先の人類を導いていくのではなかろうかと考えておりまして、それがどのような内容であるのかを推理することがこのブログでの私の目的の一つではあるのですが、そういう野望はしばし内緒にしておきましょう。
さて、ヴェーバーによりますと、プロテスタンティズムが作り出した社会は、それまで修道院の中でのみ行われておりました禁欲を世俗社会に引きずり出し、天職(ベルーフ)を全うすることが人のなすべきことであると人々に教え、これが資本主義をこれほどまでに発展させる原動力となった、というわけです。
ここで否定されたのが、世俗的な権威や個人的な事情であり、人の自然な感情とは切り離された無機的、抽象的な社会が登場することとなりました。社会は法のもとに官僚制が支配することとなり、資本主義もまた官僚化の流れに組み込まれることとなったわけです。
こういった流れは、私は肯定的に捉えております。つまり、個人を絶対的に帰属させる村落共同体的な社会は、通信、交通、商流が発達する以上存続することは難しく、匿名的な人間関係で成り立つ都市的な共同体へと社会は移行せざるを得ません。
このような社会を律するのは、明文化された法であり、これを施行する官僚機構であらざるを得ません。これらはいずれも言葉をもって既定されるしかなく、気分次第で社会の運営するなどということは、許されるものではありません。
しかしながら、人の知性というものは、いわゆるロゴスの領域に止まるものではなく、パドスもまた人の知的働きのなせる業。人の創造力は、理屈で語り尽くされるものではなく、むしろ理屈や言葉で語れる領域を超えた部分でこそ、真の創造性は発揮されます。
法や官僚制、あるいは広く一般に社会制度といったものは、ひとたび形成されると固定的なものとなり、社会的な組織はそれ自体を守ることを主たる目的といたします。一方、技術は進歩し、環境は変化し、社会制度に対する要求は時間とともに変化いたします。
そのようなときに制度を変える力をもつのは、損得勘定に支配された理性的な働きではなく、損得を度外視した直感的、感性的な働きが必要になるはずで、これをヴェーバーは英雄倫理、と呼んでいるのだと私は理解いたしました。
最近では、多様性(ダイバーシティー)の必要性が認識され、組織制度の一部にこれを取り込もうという動きもあります。しかし、ここで取り込まれる多様性は、あくまで組織制度の一部となりえるものであって、人間本来の自由でつかみ所のない部分までを取り込むことは原理的にありえないのですね。
これに代わるのは、社会の中にあえて混沌を残す道であり、自律分散型のネットワーク型社会が新たな社会のテンプレートとして考えられるのではないか、と私は考えております。
実は、そうした制度は、既存の社会の中にもすでに存在いたしまして、議会制民主主義や市場経済型の資本主義、さらにはインターネットもそのような自律分散型の社会制度なのですね。このような社会制度は、政党なり企業なりサイトなりの個々の要素の自律的な活動を認めるとともに、これら相互の間の自由な対話と競争を促進することで成立しております。
しかし、そのような理想形がそのまま成立しているかといえば、現実は理想からはるかに離れており、制度本来が期待した自由で生き生きとしたダイナミズムは官僚機構に組し抱かれ、生気を失っているのが現状である、と私はみております。
そのほかにも、安部公房が注目しておりましたような、都市深層部での混沌に相当する世界もありまして、2ちゃんねるに代表されるネットの匿名性を生かした混沌世界がその代表的存在なのですが、このような混沌世界は何らかの組織の制御下にある見かけ上の混沌であり、参加者を人間的に鍛えるという効果はあろうものの、個人的、刹那的な享楽の追求に終わる可能性が高い、と考えております。
まあ、この話を始めると長くなりますし、本日のテーマからも外れますので、このへんで話を元に戻すことといたしましょう。
いきなり話を卑近なところに戻して恐縮ですが、「涼宮ハルヒの憂鬱」におきまして、ろくな部活がないと愚痴をこぼすハルヒに対して、キョンは「普通人は与えられたもので満足しなければならないんだ」というのですが、ハルヒは「ないんだったら自分で作ればいいのよ!」と主張します。これが「平均倫理」に対する「英雄倫理」というものであって、前者はニーチェに言わせれば「畜群道徳」ということになるのではないでしょうか。
同様な英雄倫理の発露は今日の日本アニメの随所に見られるのでして、たとえば「マクロス・フロンティア」におきましても、戦闘訓練中に敵に遭遇し、「逃げろ! 模擬弾しかつんでいないんだぞ」という命令を無視して戦い始めるアルトだとか、お嬢様学校を停学になりながら歌手を目指すランカ・リーの行動は明らかに、平均倫理を逸脱した、英雄倫理に基づく行為です。このような哲学的、社会学的バックグラウンドが今日の日本アニメの魅力を高めている一因なのでしょう。
なるほど、マックス・ヴェーバーが理想といたします社会のあり方というものが、なんか見えてくるような話ではありますね。以前お話いたしました、オタクの論議でも、初期のオタクとその後に出てまいりましたオタクモドキの違いがそこにはある、ということもできそうで、これは面白いものを読んでしまった、との感を深めた次第です。
そういえば、現在も裁判が続いておりますホリエモンにいたしましても、従来の社会秩序からは逸脱した存在であり、平均倫理というよりは英雄倫理に従って動いた人であるとも言えるのでしょう。
古くは、堀江健一青年がヨットを駆ってただ一人太平洋を横断した際、旅券法違反で逮捕しようなどという動きもあったのですね。さすがにこれは、彼を熱狂的に迎える全米の人たちの声を前に、不発に終わっております。
官僚の支配する管理の強化が進んだ結果が現在の日本社会であり、そこでは英雄倫理が封じられ、すべてが平均倫理で律せられている、ともいえるでしょう。しかし、現代日本の若者に唯一残されたディオニュソス的精神発動の道が自殺であるのだとしたら、これはなんとも悲しい話ではないかと思います。
実際には、今日の若者にもディオニュソス的に生きる道だっていくつもあるのですが、おまえらは普通だ、との刷り込みが強烈でありますと、なかなかそういうことには気が付かない。英雄倫理を獲得することは難しいのでしょう。
そんな状況から脱却するには、まずは特技を磨いて、それが世間にどの程度通用するものかを一歩ずつ確認し、最後には、俺はこれで生きるのだという意識をもつ、という道がよろしいのではないかと思います。
なに、お互いに人間のやることです。今の自分には輝いて見えるような人たちにしたところで、元のところではたいした違いがあるわけではありません。結局のところ誰にもチャンスはあるのであって、要は、どのように攻めればよいか、という問題であるだけなのではないでしょうか。