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「岩波講座哲学(05)心/脳の哲学」を読む

本日は硬いところで、「岩波講座哲学(05)心/脳の哲学」を読むことといたしましょう。

同書について

岩波講座哲学は、過去に何度か出版されているのですが、今回は本年5月より毎月出ておりまして、これまでに05、0113がでております。ちなみに01は「いま〈哲学する〉ことへ」、13は「宗教/超越の哲学」となっておりまして、さしあたり面白そうなのが05というわけです。

同書の構成は、「展望」、「I 心身問題の起源と展開」、「II 心身問題の諸相」、「探求 心/脳の哲学の未来」、「概念と方法」、「テクストからの展望」となっておりまして、そのなかでも「I」までの部分がたいへん面白くなっております。そこで、本日は前半部分をご紹介することといたします。

心とは何か

心身問題、すなわち心と脳の問題というものはなかなかの難問でして、今日では超自然的現象の存在は否定され、あらゆるものが自然科学で説明されるというのが常識なのですが、では人の心とは一体なんであるかと問われますと、これに明確な答えを与えることはなかなか困難です。

人は意識を持っていると自分では考えており、自らの決定を自らの判断により決定していると考えております。そして、ある場合にはその判断に対して責任を問われることになります。

一方、今日の自然科学は、人の精神的活動は脳内部での物理現象であると考えられており、少なくとも魂のような超自然的存在がこの物理現象を左右するようなことはないものと考えられております。

人の行動が各人の魂とも呼ぶべきものによって支配されているならいざ知らず、人の行動がすべて物理法則によって決定されているというのなら、その結果に対して責任を問うのははなはだ理不尽な話です。なにぶん、物理現象は物理法則に従って進行するだけであり、なるようにしかならないのですから。

そこで、自然科学の対象としての「身体」と、社会的にはその存在が自明のものとされております「心」との関係を問う「心身問題」にスポットライトがあたることになります。

前ぶりはこのへんにいたしまして、同書の内容をざっと見ていくことといたしましょう。

心身問題の現在

展望 心身問題の現在は、序論に相当する短い節で、ほぼ「I」の概要を述べているといえるでしょう。

19世紀の後半、哲学から心理学が独立し、哲学の分野はもはやなくなったかに思われた時期もありますが、20世紀後半に「心の哲学」と呼ばれる流れが成立し、大きなテーマとなります。

心の哲学は、デカルトの心身二元論に始まりますが、コンピュータ科学の発達と脳神経科学の発達により、これらを統合した「認知科学」が生まれます。

この一つの立場は、人の心をインプットに対してアウトプットを生じる「機能」としてとらえる考え方ですが、この場合、「意識」はどうなるのか、「志向性」はどうなるのかといった難問が生じます。そこで、「環境に適応する機能」として志向性の取り込みが行われております。一方、脳科学と哲学との関連はさらに難しく、この節では明白な解答が示されてはおりません。

心身問題の歴史

さて、この問題は、意識や倫理観といった「心」の世界と、物理現象に従う「身体」の世界の二つをどのように捉えれば良いのかという問題であり、古来より哲学者の関心を呼び議論が行われてまいりました。これを歴史的に概観しながら解説するのが、以下にご紹介いたします第I部ということになります。

I 心身問題の起源と展開
1 魂の発見:魂という概念はギリシャ時代の哲学者たちによって確立されました。単純にいってしまえば、魂とは、物質とは異なるものとして人を動かす要因であると考えられておりました。

2 魂から心へ:デカルトはその有名な言葉「我思う故に我あり(エゴ・コギト・エルゴ・スム)」により、否定不能な絶対的な存在として「思う我(コギト)」の存在を証明(?)いたしました。

また、われわれが知りえる存在について、「広がり」としての実在と、人が精神のなかに生み出す「属性」としての存在(たとえば色とか熱など)に分類いたしました。デカルトの思想における重要なポイントは、実在とは人の心の中に生じる「観念(idea:イデア)」であるとした点です。

3 心から脳へ:デカルトの「心身二元論」という問題がその後議論されることとなります。物理法則に従う物体としての体を、そのなかに存在する「心」が制御しているとすれば、その心もまた物理的作用を持つはずであるにもかかわらず、そのような兆候は認められません。

20世紀中ごろになりますと、この世界のものはすべて物理的に構成されているとする「物的一元論(物理主義)」、「心脳同一説」が支持を集めます。しかし、心的性質は十分に説明されないままに謎として残されます。

4 脳から身体・環境へ心は脳にあるのではなく、身体と環境を含んだ生態系に実現しているという「エコロジカルアプローチ」が登場いたします。同書によりますと、拡張した心の概念では、そもそも「心」なるものは、人間が環境に対して適応的に働きかけ、環境とカップリングを成立させてゆく生存のあり方の一局面を指しているにすぎないと考えるといたします。

異なる世界という心身問題に対する解

さて、心身問題に対する私の考えは非常に単純でして、意識に起源を発する議論と、科学的な議論とは、基礎(世界ないし階層)を異にしている議論であって、同時に議論することはできない問題である、というものです。

この思いは、本ブログを立ち上げた最初からの思いでして、マンガはインクのしみなのか、という思いが元にあったのですね。これは、私があるマンガを何十回も繰り返し読んでいるときに気づいたことです。

その瞬間、まるでランダムドット三次元絵画が突然立体的に見えるように、マンガとしてみていた情景が、瞬時に、紙の上のインクの情景に置き換わる、という経験をいたしました。この経験は悟りに近いもので、それまでの私が固く信じていた、自然科学万能の唯物論的世界観が崩れた瞬間でした。

自然科学の見地からは、どのように分析をしたところで、コミック本からはインクと紙しか見出すことができません。もちろん、その幾何学的形状は自然科学の対象となることはありえるでしょう。しかし、自然科学の知見では、そこに物語を見出すことはありえません。

一方、人はコミック本がインクと紙であるということは確かに知ってはいるのでしょうが、普通はそこにキャラクターなりストーリーなりを見出すのであって、それをインクと紙であるという人はよほどのへそ曲がりです。普通の人は、コミック本に描かれた物語を鑑賞しようと本を開き、そして物語を見出しております。

物理的実体とそこに人が見出す概念というものは、一致する場合もあるのですが、まったく異なる場合もあります。人の精神活動の結果生み出されたもの(作品)と、人の精神活動そのもの(内省された自我や眼前にあって私に語りかけている他者など)は、物理的実体を離れた概念としてそれを受け取る人の精神に作用いたします。このため、物理的実体とはまったく異なる印象を受け取ることも珍しくはありません。

紙の上のインクのシミやバックライトに照らされた液晶の輝きに、人びとはインクや液晶とは何ら関係のない、広大な物語を見出します。物理的実在を議論する世界と、そこに描かれた物語を議論する世界は論理を異にする別個の世界であり、論理はそれぞれの世界で閉じており、異なる世界の論理を持ち込むことは通常はご法度です。

もっとも、このご法度を逆手に取ったアニメMagical Maestro(マジカル・マエストロ)のような作品もありまして、フィルム上映時の映写技師泣かせでありました「ごみ」が後半の画面左下に現れるのですが、これが実は作画されたもので、しばらくした後に、登場人物がこれをつまんで捨てるというギャグであるわけです。

アニメをフィルムで上映するなどということは最近ではあまりお馴染みではありませんし、映画館でもゴミなどが画面に映りこむことなどめったにありません。だからこのギャグは今の人達にとって、なんじゃこりゃ、という印象を受けるかもしれませんね。まあ、今日でしたら、一見液晶の欠陥のようにみえる輝点を作画でアニメに作りこむ、といった手でしょうか。

閑話休題、社会を律する法律の世界では、作品の内容とその物理的な実体をきちんと分けて議論しております。たとえば著作権法は「無体物」の法理といわれておりまして、物理的な実体であります「有体物」ではなく、そこに固定された表現の部分に関わる権利を保護する法律です。

コピーとオリジナルは、物理的な実体は別個ですが、表現(無体物)は同一であり、著作者の権利はコピーにも及ぶ、というわけです。

主体を捨象して成り立つ自然学

自然科学は心ないし主体に関わる部分を捨象することによって成立しております。誰がどこで行っても同じ結果が得られるからこそ物理法則は価値があるわけです。

もちろん、自然科学の研究はそれぞれの個人によって行われ、研究者の名前の元に論文が発表されます。しかし、自然科学を遂行する個人の事情も社会的枠組みも、自然科学が対象としている世界の外部に属します。

すべてを対象とする哲学にしても、およそ考えつくあらゆるものを一つの世界に引きずり出して議論するというわけではなく、ある領域を捨象し、特定の世界の内部で議論が進められます。

デカルトが「エゴ・コギト・エルゴ・スム(我思う故に我あり)」というとき、確かにすべてを疑ったのちに、疑う自分自身の存在は否定できないという考えにたどり着いたというその論理自体は正しいのでしょうが、ではデカルトが実際にすべてを疑ったのかといえばそんなことはないはずです。

というのは、この言葉はラテン語で発せられており、ラテン語の存在なり、この言葉を理解する人々が存在することは信じていたはずですし、書物として出版しているということは、そういう社会システムの存在を彼は信じていたはずなのですね。

実は、哲学的な思索にふける場合も、それはこの社会の中で、普遍妥当性を求める行為なのであって、そのような社会的前提は受け入れた上で、あくまで思索としてすべてを疑っているわけです。すなわち哲学が対象とする世界は、哲学者が属している世界とは別の世界です。

脳科学のアポリア

脳科学の哲学的扱いが難しい点は、それが人間を対象とするものであって、精神活動に対応する自然現象の記述がなされることにあります。しかしこの場合も、研究対象である人間の意識と、研究を行う側の人間の意識は別物と考えるべきであって、科学は研究を遂行する側の主体を捨象した、あくまで研究対象に対する叙述を行わなければなりません。

研究対象としての人の脳は物理的な存在であって、内部に確率的な過程を含むとしても、物理法則にしたがって動く、自然現象のひとつに過ぎません。一方の研究者も、自らの脳を使って研究活動を行っていることは百も承知なのですが、研究を行っている自らの行為を自然現象と考えているのではなく、自由な意識の働きとして考えています。

自然の一部としての脳で行われている情報処理は、われわれの精神が把握している情報処理と対応しているということは当然あるでしょう。だから、主観的に感じている記憶や感情の働きに対応する物理的な実体があったところで何ら不思議はありません。主観的に得られた知見を脳科学の研究にフィードバックすることは何ら問題はありません。しかし、この二つの世界には大きな相違があることもまた事実です。

デカルトの心身二元論の誤りは、せっかくコギト(自らの意識)の絶対性を見出し、外界の実在と意識された外界の区別をつけていながら、精神があたかも外界の実在物であるかのごとく振舞うと考えたことです。人の脳の松果体に人の精神があり、これが脳の働きに影響を与えているとデカルトは考えたのですが、そうなりますと、ではその実在物の内部はどうなっているのかという疑問が生じてしまいます。

現象学の慧眼

現象学の慧眼は、研究者という主体を捨象して外界の自然を扱う自然科学に対峙して、外界の自然を捨象して人の精神(コギト)を研究しようという点にあります。つまり、自然科学とは異なる世界として精神科学を研究しようとしたのですね。

ただ、現象学のその後の発展は、恐ろしくねじれた方向に進んでしまったように私には思われます。当初後継者と目されたハイデガーが全然別の方向に進んでしまったのは論外といたしましても、フッサールの流れを汲みますメルロー・ポンティにしてもずいぶんと別の世界にいってしまったように私には思われます。

なにぶん、現象学がゲシュタルト心理学と結びつきますと、客体としての脳の研究と同じ世界の議論となってしまいます。そういう意味で、メルロー・ポンティの現象学はフッサールの出発点からずれているという印象を私は受ける次第です。

同様な違和感は、「心/脳の哲学」にも感じるものでして、今日の心身問題を扱う哲学者の主流は客体として人間を扱う傾向が強すぎるように私には思われます。プラグマティズムをベースといたしました英米系の哲学が私の肌にはあわない、というだけのことかもしれませんが、、、

論理世界は限界をもつということ

ともあれ、物理学にせよ哲学にせよ、一つの学問が世界のすべてを説明しようとすることは、学問の姿勢としては間違ってはおりません。しかし、学問が前提としている限界を忘れてはいけません。物理学は人の存在とは無関係な自然の挙動を叙述するものであり、そこに主体の関わる説明を求めてはいけません。

論理世界が限界をもつことは、別に珍しいものでもありません。以前のこのブログで、スポンヴィルの「資本主義に徳はあるか」を読みましたが、この本のなかでスポンヴィル氏は「5層の秩序」ということを述べております。すなわち、「技術・経済の層」と「政治・法律の層」、「道徳の層」、「愛と倫理の層」、そして「信仰の層」があって、議論はそれぞれの層の内部で行われるものであって、異なる層の議論に影響を及ぼすのはおかしいと主張いたします。

科学技術と経済の層も分けて考えた方が良いようには思いますが、われわれが世界を理解する際には、いくつかの層(世界)を想定し、それぞれの層の限界を意識して、その内部で議論すべきであると私は考えます。

そうしたときに哲学の役割は、それぞれの層がどのようなものであるのかをきちんと定義することであり、層間の調整を取っていくことが哲学に期待されているのではないだろうかと考える次第です。

哲学が扱うべき問題

さて、哲学は人間の精神ないし心を探求してきたのですが、今日その多くは脳科学の領域に譲り渡すべきではないかと私は考えております。

むしろ哲学がなすべきことは、そのような自然科学の枠組みを考察し将来を見通すことであるはずです。たとえば、人工知能の研究者の多くは、人間と同じ精神的機能を持つ装置は原理的に作ることはできないと考えているのですが、物理学の対象とする層を精神の層と分離して考察するなら、このような装置も製作可能であると考えられるでしょう。

もう一つのなすべき点として、自然科学は神のごとき超越者の視点に立つ一方で、人の知りえないことがあるという現実の、二つの間で引き裂かれている現状を改善すべきであるということを考えております。

自然科学は研究者をその領域とすることはできません。このため、自然科学は絶対的な真実を追究していると考えがちです。しかしながら研究者の行っていることは、人間精神による自然の叙述です。また、これによって得られるものは絶対的な真実ではなく、普遍妥当性に基づく真実、すなわち論理的な齟齬がなく多くの人によって真実と受け入れられる学説です。

物理法則が絶対的真実の座を追われたのは20世紀の初頭、相対論と量子論が登場したときでして、それまで絶対的と考えられていたニュートン力学は近似法則に過ぎないことがわかりました。フッサールが現象学を打ち立てたのもこの時代であり、人の意識の側から諸学の基礎を築こうといたしました。

フッサールは、ある種絶対的事実として考えられていた「客観」を、多くの人に共有された主観である「間主観性」の上に再構築するのですが、この概念は従来から真実の要件とされておりました「普遍妥当性」とさほど異なったものではありません。

そして、物理法則が絶対的真実ではなく仮説であること、物理学が人である研究者によって行われていることなどは、すでに常識と言っても良いような事柄です。

そうなりますと、自然科学の叙述は、「もし神であれば云々」という立場と、「しかし限りある人間であるから云々」という二段階の叙述となっても良さそうな気がいたします。

たとえば、もし未来を見通すことができる神のごとき存在にとっては、未来は確定しております。また、真理が時間の経過によって変わらないものであるといたしますと、未来における真理は今日における真理と同じでなければならず、未来は確定しているといわざるを得ません。

しかしながら、限りある人間にとりましては未来を見通すことはできません。従って、人は確率的にしか未来を語ることはできません。

未来は確定しているということが、仮に神のごとき絶対者にとっては真実であるといたしましても、そういってみたところで、どのように確定しているかわからない以上、われわれには何の役にも立ちません。結局のところ、未来が確定しているかいないかに関わらず、未来は確率的にしか語りえません。

同じことは脳と心についてもいえることであって、仮に脳の働きがすべて物理現象として説明されていたとしても、日常生活において今それがどのようになっているかを知りえない以上、他人の考えは言葉なり表情なりから読むしかなく、それが脳内での情報処理によるなどという知識は他人を理解する上では何の助けにもなりません。

もちろん、自らの脳についても同様であって、脳がどのように機能しているかを知ったところで、決断を下す上では何の役にも立ちません。

と、いうわけで、長々と書いてしまいましたが、心身問題の解は、自然科学の世界と主体の世界は別であり、これらの世界の議論は分けて行わなければならない、ということであると私は理解しております。にもかかわらず、これを同じ平面で議論する人が多いことが、今日のこの問題を複雑にしている原因であるように思われます。

同じ問題は、自然科学の他の領域でも、特に量子論に強く現れているように私には思われます。そして、いくつかの制約を自然科学に加えることにより、これらの問題は避けられるように思われるのですが、これをご理解いただくにはまだまだ時間がかかりそうです。

ちなみにその原理とは、以下のものです。

第一原理:知りえないことを科学は語りえない
第二原理:主体に関する概念を科学は扱えない

この他に「第三原理:時間は虚数的に振舞う」などというものもあるのですが、これにつきましてはまた別の機会に議論することといたしましょう。

時間に関する議論も哲学の一つの領域なのですが、物理学が時空を扱うようになりますと哲学者の時間論は今ひとつ迫力を欠きます。

ならば時間という概念は物理学者にお任せすれば良いのかといえば、そんなこともありません。

実は、時間概念というものは、意識と密接に関係しているものであり、物理学が語りつくせるものでもないのですね。

しかしこのお話を始めますと長くなりますので、これにつきましては、また別の機会に議論することにいたしたいと思います