本日は貫成人著「哲学マップ」を読むことといたしましょう。お手軽なちくま新書の一冊で、お値段は税別740円となっております。
哲学の出発点
数多くの哲学者の思想を紹介する本につきましては、本ブログでもこれまでもいろいろとご紹介してきました。これらの本はそれぞれの思想を羅列する形で扱うものが多かったのですが、今回ご紹介いたします「哲学マップ」は、それぞれの思想間の関係を解説しているところが新しい点です。
さて、同書の内容ですが、なんと1章~13章の13章に加え「終章」などというものまであります。まあ、ずいぶんと多いのですが、ともかく章立てをご紹介いたしましょう。
第1章:哲学の出発点:(略)
第2章:古代ギリシャ:哲学は紀元前6世紀にイオニア(現在のトルコ)に始まり、ギリシャで発展いたしました。ここで問われたのは「~とは何か」ということあり、タレスは「万物は水である」といたします。
アテナイのソクラテスは、自らをギリシャ一の賢人とするデルフォイ神殿のお告げに疑問を抱き、当時の賢者とされた専門家に「善とは何か」、「美とは何か」、「正義とは何か」と問い、満足な答えが返ってこないことを知ります。つまり、ソクラテスは自らが知らないということを知っているだけ、他の賢人達よりも賢かった、というわけですね。
ソクラテスの弟子プラトンは、複雑な現実界の裏にある本質「イデア」こそがすべての答えであるといたします。善とは善のイデアである、というわけですね。しかし、そう言ったところで、あまり問題解決にはなっていないような気もいたしますが、、、
プラトンの弟子アリストテレスは、イデアを重視せず、現実界にとどまります。そして、万物は4つの原因すなわち、「作用(始動)因」「目的因」「形相因」「質料因」から成ると主張いたします。
トマス・アクイナスとデカルト
第3章:中世における神と人間:中世に入りますと、キリスト教が普及し、絶対的な神の存在を人々は受け入れます。そして、「原罪」を人の「普遍的本質」とする教義をいかに考えるかという点をめぐって「普遍性論争」が発生します。この中で、普遍的本質が実在するとする概念実在論、個々の名前のみが実在するとする唯名論、すべては神の考えの中にあるとする概念論が生じます。
また、トマス・アクイナスは、神の本質は存在することであり、その他の本質は神には妥当しない、といたします。
第4章:近世における転回:近世に入りますとデカルトが登場し、懐疑の果てで「コギトエルゴスム(我思う故に我あり)」という着想にたどり着き、主観と客観の二元論、心身二元論を唱えます。
デカルトの思想は、スピノザやライプニッツによって発展いたしますが、一方英国においてロック、ヒュームなどの経験主義が登場いたします。
カントの登場
第5章:哲学の「頂点」―近代:経験論と大陸の合理論を統合したのがカントであり、経験に先立つ悟性(知性)によるカテゴリー化(概念化)により人は世界を経験するといたします。カントは美学から倫理にいたる幅広い分野にわたって彼の哲学思想を展開いたします。
カントの観念論は「ドイツ観念論」として発展いたします。「弁証法」というテクニックを用いてこれを纏め上げたのがヘーゲルでした。
第6章:近代の不安:19世紀の後半になりますと「グレート・ジャーマン・トリオ」と呼ばれますマルクス、フロイト、ニーチェが登場いたします。マルクスは、経済的な「下部構造」によって人の考え方は既定されるとし、フロイトは「無意識」が人の考えを左右するといたします。さらにニーチェは、道徳は妬みや嫉み(ルサンチマン)が作り出したものであり、この世に価値などなく、神は死んだと主張します。
現代哲学
第7章:現代哲学へ:この後の哲学は、ヴィトゲンシュタインらの論理や言語を追求する方向と、コギトに立ち返るフッサールらの現象学というもう一つの方向に分岐いたします。そして後の構造主義、ポスト構造主義へとつながっていきます。
第8章:現代哲学(1)―言語分析:哲学の一つのテーマである論理が批判的に検討され、論理はかつて思っていたほど絶対的なものではないということが明らかにされます。
第9章:現代哲学(2)―現象学と実存思想:これらの思想は「主体」すなわち自分自身という存在を掘り下げるものです。この章ではフッサール、ハイデガー、サルトル、ポンティ、レヴィナスといった多彩な思想家が登場いたしますが、これらの思想は一言で説明できるようなものではなく、ここでのご紹介はスキップいたします。
第10章:現代哲学(3)―構造と流動性:この章では、構造主義、ポスト構造主義からポストモダンにいたる思想が紹介されます。これにつきましては、本ブログでもこれまでたび たび議論いたしましたので、省略することといたします。
そして、最後の4章はまとめということとなります。
第11章:哲学マッピング
第12章:東洋思想
第13章:哲学で見る世界
終章:哲学の問い再び
4色問題という問題
さて、以上が同書のご紹介ですが、私の意見を書きます前に一つだけ。同書181ページで、親族関係の構造が4種類あることを、「4色問題の事情による」と述べておりますが、これはおそらく著者の誤解ではないかと思います。
レヴィ・ストロースの「構造」とは、同書にも書かれておりますように「二項対立」すなわち「AであるのかAでないのか」という関係の組み合わせであり、これに「BであるのかBでないのか」などがいくつか加わった形で社会関係が表現できる、という意味です。
このことは、社会関係がyes-noの組み合わせで表されることを意味しており、あらゆる社会関係は2進法の数値で表現できる、ということを意味します。ですから、親族関係が4種類あるということは、二つの対立要素がそこにはあることを意味しており、組み合わせの数が 22 = 4 となるわけです。
4色問題はもっとずっと難しい問題であり、これとは関係がないように私には思えます。
哲学的問いかけとその解
さて、哲学的問いかけに関しまして、同書の内容も参考にしながら、簡単に整理してみることといたしましょう。
まず、万物の本質は何か、という問いかけは今日では物理学に譲るべきであると私は思います。簡単に言ってしまえば、物質と空間から成り立っている、ということですね。
第二に、絶対的な真実なり価値なりがあるのかという問題ですが、かりにそれがあったところで人はそれが何であるかを知りえず、人間にとって意味を持たない概念です。
絶対的な真実を前提とすれば、明日の天気は決まっています。なにぶん、明日になればわかる真実は今日においても真実でなければなりません。しかし、かりにそうであったとしても、その真実が何であるのか明日にならなければわからないのであれば、明日の天気は決まっているという言説は何の意味も持たないのですね。
絶対的真実に代わる「真実」として、多くの哲学者は「普遍妥当性を有する概念」が「真実」であると考えております。
主観と客観をめぐる問題は、哲学思想の第三の問題であります、デカルトに始まる「心身問題」ということになるのですが、私はコギトに着目したデカルトは慧眼であるように思いますし、これを発展させた現象学が哲学の正しい道筋であるように私には思われます。
なにぶん、哲学にせよ自然科学にせよ、人が考えるというのが出発点であり、主観から始まるしかありません。ただ、主観の段階にとどまっていては、普遍妥当性を有する真実の領域には至ることはできません。
現象学では、外界を捨象して自らの意識を掘り下げた末に他者を見出し、他者と共有できる主観として「間主観性」に至るのですが、フッサールはこれを「客観」と定義しております。こういう意味での客観であれば、普遍妥当性を礎とする真実がそこに見出されることもありえます。
社会の知的機能
脳科学によれば、意識はニューラルネットワークの作用により生じたものなのですが、もう一つ外側のネットワークもある、と私は考えております。つまり、人と人がコミュニケートすること、社会的ネットワークの作用により、ニューラルネットワークが意識を生み出すのと類似した効果が生じるはずだ、ということなのですね。
社会が、脳の一階層上の、知的活動をする主体であるといたしますと、「客観」や「普遍妥当性という意味での真実」は「社会という知生体の主観」とみなすこともできそうです。
これは、ある学説(相対論など)が真実(普遍妥当性という意味での)と認められるための過程を考えてみれば理解し易いでしょう。
このためには、学者は、学会誌なり学会の大会で発表し、多くの学者の批判的検討を受けなければなりません。そして、多くの学者が納得して受け入れた段階で、その学説は真実となります。
学会誌にせよ大会での議論にせよ、これらはみな人と人との間のコミュニケーションです。そして、これら個々のコミュニケーションとそれを可能とする社会システムが学術社会であり、更にその外側にはマスコミなどを含む社会全般があるわけです。
このような社会が、一人の学者の知性を超えた、社会独自の知的活動を行っていることは疑いもなく、社会は知性体であるとみなして妥当であるように私には思われます。なにぶん、アインシュタインにしたところで、マイケルソン・モーリーの干渉実験やローレンツの収縮理論の上に自らの理論を構築しており、一人の学者の精神的機能を超えた知的働きが相対論を生み出したことは否定できません。
人の脳も非常に複雑な構造をしておりますが、社会はこれに輪を掛けた複雑さです。社会のもう一つの問題は、境界が定義されないことでして、全人類と言ってしまえば簡単なのですが、実際には特定の人々を中心として「知生体としての社会」が構成されております。
ポストモダンの問題意識の一つは、かつて西欧中心であった文化的世界が、いまや大いに拡大してしまったという点にあります。これは、社会という知性体にとっても大きな変化であり、その精神が落ち着くまでの過渡的な状態が今日の思想界であるとみなすこともできそうです。
本日読みました「哲学マップ」は、哲学史の書物などに比べますと、各思想への掘り下げが随所に見られ好感を受けるのですが、哲学の向かう先が今ひとつ見えない、というのが偽らざる感想です。もちろん、それが今日の哲学を取り巻く状況であるのかもしれませんが。