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「岩波講座 哲学05 心/脳の哲学」を読む(その3)

このブログでは2回にわたって「岩波講座 哲学 05 心/脳の哲学」をご紹介してまいりましたが、残りの部分につきまして、本日はご紹介いたしましょう。

同書の構成

同書の全体構成は次のようになっております。

展望 心身問題の現在
I 心身問題の起源と展開
II 心身問題の諸相
探求 心/脳の哲学の未来
概念と方法
テクストからの展望

このうち、展望とIの部分につきましては前々回、IIの部分につきましては前回ご紹介いたしました。本日はその次の「探求 心/脳の哲学の未来」についてご紹介いたします。

「探求 心/脳の哲学の未来」部分の著者は染谷昌義で、章立ては次のようになっております。

はじめに―「脳産教理」を超えて脳を取り戻すために
1.大森の脳産教理批判―無脳論の可能性
2.無脳仮説の拡張と脳の機能
3.意味関係の科学―知覚経験への生態学的アプローチ
4.知覚システム論と生態学的脳機能
5.生態学的アプローチの深みへ―選択主義の可能性

大森荘蔵の「脳産教理批判」

さて、前半で話題となりますのは大森荘蔵の「脳産教理批判」です。

「脳産教理」というのは、今日の脳科学の常識であり養老孟司の「唯脳論」に代表される「人の心の働きはすべて脳が作り出したものである」という「セントラルドグマ」を批判したもので、大森の論旨(無脳仮説!)は少々乱暴であるように思われますが、「大森氏は脳産教理を決して否定しているわけではない。ただ、それとは異なる別の信仰、脳と心の関係についての別の見方が可能であることを示しているだけである」との染谷のとらえ方であれば、この主張は的を射ているように、私には思われます。

大森の無脳仮説につきましては、1.大森の脳産教理批判―無脳論の可能性の冒頭で詳しく解説されておりますので、まずこれを引用しておきましょう。

1. 私たちが外界を見るとき、外界にある対象からの反射光線に始まり、網膜、、視神経、外側膝状体、視床、大脳皮質視覚野……と続いてゆく信号伝達の因果連鎖がある。この因果連鎖を「順路」の因果系列と呼ぶ。

2. 脳産教理が維持されるためには、外界から脳にいたる順路の因果系列とは逆向きの因果系列が成立していなければならない。というのも、脳産教理は、外界の知覚意識が脳を原因として生み出されると考えるからである。この「逆路」の因果系列とは、脳を原因とし、意識された外界の「見え姿」「視覚風景」の成立を結果とする。

3. しかし逆路の因果系列は、時空的な連続的接続がなく追跡不可能であり跳躍している。

4. したがって脳産教理は脳から視覚風景への因果跳躍を犯している。

5. ……原因から結果に至る順路逆路の因果系列の一部分に跳躍があるのなら、因果系列なしで結果とされる事態が成立することも可能である。

6. それゆえ、この因果系列の途中に挟まれる脳がたとえないとしても、外界を見ること、外界を見るという事態の成立は可能である。脳がなくても視覚意識はありえる。(色付けは私)

と、いうわけです。この論理は、私が見たところでは大きな間違いがあるのですが、これを間違いであると、今日の自然科学の立場からは指摘できないところが面白い点であるように思います。大森は、その間違いを重々承知した上で、その間違いを指摘できない科学者の思考のあり方を批判して上の論理をぶつけてきたように、私には思われるのですね。

脳産教理の誤り

その間違いといいますのは、上の引用部で赤で表示した部分でして、人が外界を意識した結果意識された外界の「見え姿」「視覚風景」が最終的に得られるのは良いのですが、これが外界にあると考えるのが大きな間違いである、と私は考えるわけです。意識された外界とは、決して外界にあるものではなく、人の脳の内部に構成されるものです。したがって、逆路の因果系列などは最初から不要であり、因果跳躍を起こすこともありません。

しかしこの考え方は今日の自然科学の前提とは食い違っております。今日の自然科学は、人の意識とは切り離された外界そのものを対象とすることを前提としており、人の精神的な働きにより脳の内部に構成された外界の諸概念を対象としているなどとは考えておりません。

この自然科学の前提は、今日のプラグマティズムに礎をおく科学哲学の主流ではあるのですが、人類が営々と築き上げてきた哲学思想の系譜の中では、どちらかといえば傍流に相当すると、私は考えております。

人が外界それ自体を知り得ないということは、すでにカントによって指摘されていたことであり、人が知りえるのは外界によって触発された知覚のこちら側だけであり、それも悟性によって概念化された形で人は外界を意識しております。自然科学というのは、脳内現象である人の精神内部のはたらきであり、人間精神による外界の叙述である、ということになります。

誰かの脳が外界を記述しただけでは、それは科学とはいえません。なにごとによらず、学問的な真実とされるには普遍妥当性が要求され、一人の人間の脳がどのように作用したところで、決して普遍妥当性は生み出されません。そこで登場いたしますのが他者であり、その集合体としての社会です。

普遍妥当性は社会がそれを認めたときにはじめて成り立つものであり、個々人の精神的機能をコミュニケーションチャネルで接続して構成される人間社会の精神的機能が普遍妥当性を生み出すと考えるべきでしょう。

脳産教理に対する染谷の反論

以上は私の解釈ですが、染谷論文に戻ることといたしましょう。大森の主張は次のように要約されます。

そこで、心(これまでの例では、意識される視覚風景)と脳(外界や身体)とを因果関係で繋いで心のはたらきや状態を説明しようとすることを断念し、脳や神経の活動についての生理学的な記述は心のはたらきや状態についての意味関係の記述の上に重ね描かれたものとして把握せよと提案される。

この大森の主張に対して染谷は懐疑的であり、以下のように述べます。

しかしながら眼や脳や神経は、この「意味関係」の成立に一切寄与することはないのだろうか。…… 脳や神経が、脳産教理が想定するような因果的機能を果たしてはいないという大森の論点を受け入れながらも、なお意味関係の成立に因果とは別の仕方で貢献する脳や神経の機能を考えることはできないのだろうか。大森の無脳仮説への応答として考えられる第二のやり方は、「意味関係」の成立にとって脳や神経、さらには身体と環境が果たす別の役割を積極的に打ち出してみることである。

これに対する私の考え方は単純でして、意味関係が漫画のストーリーであるとすれば、脳や神経はインクや紙に相当するものです。これらは異なる論理世界に属するものであり、脳に障害があってはじめて脳のはたらきを知るように、漫画の読者は印刷の不良箇所をみてはじめてインクの存在を意識する、というわけです。紙の上のインクという実在の上に、漫画のストーリーと、紙とインクという物理的概念とが、重ね描かれているのですね。

大森荘蔵の「存在と時間」を読んでみないことにはなんともいえないのですが、染谷の記述を読む限りでは、大森荘蔵の真意もこのような点にあったのではなかろうか、と憶測するしだいです。漫画とインクの例を考えれば、「重ね描かれ」た概念は相互に無縁ではなく、上の引用部での染谷の反論は的を外しているように思われます。

生態学的アプローチの問題意識の誤り

染谷は上の引用部で第1章を終え、続く2章で大森の理論を掘り下げ、ギブソン流の「生態学的アプローチ」にその解があるとしたのち、続く章で生態学的アプローチの説明を深めていきます。

生態学的アプローチの論点は、第一に、知覚過程を感覚入力の因果的な処理過程であるとは考えない点であり、その理由を染谷は次のように説明いたします。

入力処理に基づく因果的な知覚論は、どうしても論点先取を犯してしまう。もし、感覚入力に何らかの処理を施さなければ環境について知覚的に知ることができないとすれば、処理過程を経た後に得られる環境についての知覚的知識が前もって存在していなければならない。そうでなければ、入力に対していかなる処理を施すべきかがわからない。しかしこれは、知覚的に知られた環境とはどのようであるかという知識の存在をあらかじめ仮定したうえで、環境の知覚を説明することである。ここでは説明が循環している。

確かに、固定的な論理によって知覚情報を処理しようとすればこのような循環論に陥ってしまうでしょう。しかし、ニューラルネットワークの情報処理過程は固定された論理ではなく、特徴抽出といった、よりフレキシビリティーの高い処理であると考えられております。

生態学的アプローチにおける知覚論も「情報抽出理論」と呼ばれる考え方に基づきます。ただ、ここでの「情報」は環境内にあらかじめ存在するパターンであり、主体の行っていることは環境内に存在している意味を探り当てて抽出することである、といたします。

意味は環境に存在するのか、意識が作り出すのか

生態学的アプローチの第二の論点は、知覚は脳だけが行っているのではなく、視点を変えるために移動したり、手を使うなど、身体全体で行う行為であり、そこには入力もあれば出力もある、という点です。この点は、しかし、知覚の本質にかかわるポイントではないように私には思われます。なにぶん、視点を固定したところで知覚ができなくなるわけではありませんから。

よく考えてみれば、旧来の認識論においても、概念の形成がパターン抽出ではない、などということは主張してはおりません。そうなりますと、生態学的アプローチのキーポイントは、「意味が環境に存在する」という点であるように思われます。

これは、今日自然科学で一般的な考え方には大いに助けとなる主張でしょう。すなわち、人とは無縁の外界を研究するという立場と「意味が環境に存在する」という主張は完全にマッチいたしますから。

しかしながら、環境に存在する意味とは、誰にとっても同じものであるのか、ということを考えますと、これは必ずしも同じであるとはいえません。例えば、虹の色が何色かといったことは、人の生まれ育った文化に依存することです。

人の外界理解は彼の生まれ育った環境に依存するという構造主義の主張を受け入れますと、環境に存在する意味とは人それぞれであり、環境が発する情報は同じであるといたしましても、意味は環境から得られた情報に基づいてそれぞれの人の脳が構成すると考えるしかありません。

そういう意味では、生態学的アプローチは単一文化論を背景として始めて意味をもちえるのであり、構造主義を真っ向から否定するアプローチです。今日では、このアプローチはありえないように、私には思われます。

おまけとして、盲点検出図形をつけておきましょう。左目を閉じて下の図の+を見つめ、画面との距離を変化させますと、あるところで右側の黒丸が消失いたします。

人の視覚には「盲点」と呼ばれる視神経の存在しない部分があるのですが、人はまったくこれに気づきません。回りの情報から盲点の情報を補ってしまっているのですね。

意識される視覚風景とは、外界の実在そのものではなく、われわれの脳の中に再構成された風景であるということが、盲点の存在からも御理解いただけることと思います。

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