#2に続き、佐々木氏の「ブログ論壇の誕生」のご紹介を続けます。
第14章:青少年ネット規正法
ポルノや自殺方法など、ネット上の有害情報から青少年を護るための法規制とこれにかかわる議論について紹介されます。当然予想されますように、効果はほとんどありません。
第15章:「ブログ限界論」を超えて
この章では、最近ブログが面白くない、いや、面白いブログはある、という議論と、ブログと既存メディアとの関係について簡単に論じられます。
さて、以上、同書の内容を紹介し、一部については私の考えを書いてまいりましたが、以下、全体を通して議論することといたしましょう。
まず第一に、ネットは「リアル」とは異なる「バーチャル」な社会である、といった捉え方をする人が多く、この本でもネット以外の世界を「リアル」とする表現が見受けられるのですが、ネットといえどもリアルワールドの一部である、ということを誤解してはいけないと思います。
ネットは匿名のコミュニケーション手段である、というのも一面的な捉え方に過ぎず、実は、ネット上のメッセージがだれによって書かれたかは、ネット上に現れる情報からでは知ることができませんが、プロバイダやボードの管理者は個人を特定する情報を持っております。
運営サイドが参加者に比べて多くの情報を持つということは、情報の非対称性を生じ、運営サイドにさまざまな利をもたらします。多くの場合には、利用者のデータベースを作り、宣伝などのビジネスに役立てようと考えているのでしょう。もちろん、そのような利益があるから、無料での場の提供が広く行われているのでしょう。
そういう仕掛けがありますので、たとえば2チャンネルに犯罪的なメッセージを書き込みますと、簡単に逮捕されてしまう。Wikipediaの記述を組織の目的に合うように書き直して批判を浴びた人たちも、このあたりでは大いに誤解しているように思われます。
ネットの特性は、旧来のコミュニケーション手段に比べて、応答が速く、広範囲に及ぶという特徴があります。だから、間違ったメッセージや間違った行為に対しては、すばやく批判されるということもあるのでしょう。
この批判、すべてがすべて正しいわけでもありませんが、なかに正鵠をつくものがあり、これに対して不適当な対応をすれば批判が広がってしまうことも避けられません。
このような事情は、コントロールが難しいという意味で困った問題であるかもしれませんが、旧来のメディアに間違った情報が掲載された場合、これが長期にわたって流布してしまう、という問題とくらべてどちらが害が少ないかと問われれば、ネットのほうがマシといわざるをえないでしょう。
以前のこのブログでもご紹介いたしましたが、ちくま新書として出版された某書は重力の原因は地球の自転であるとしております。これをご紹介してからずいぶんたったころにもこの本は書店に並んでおりましたので、記述がどうなったかチェックしてみましたが、そのままです。これは昨年の話でして、まさかこんな本がいまだ出版され続けているとも思えませんが、これがネットであって読者の反響がページに反映されるようになっておれば、誤りはすぐに訂正されたはずです。
Wikipediaには誤った記述が多い、などという声も多いのですが、従来の媒体にしたところでどこまで正確であるかはきわめて懐疑的です。まあ、どんな情報にせよ、頭から信じ込んでしまうのは最悪であって、自らが考えてみるという態度、おかしな記述を見分けるセンスが、どんな情報を利用する際にも必要なのでしょう。
第二に、匿名性をめぐっては、ネットをめぐる業界の思惑というものがあり、これが問題を複雑にしています。インターネットというコミュニケーション手段が、技術的には発信者の特定ができるにもかかわらず、現実に運営されているコミュニケーションの場では、発信者の情報は巧妙に隠されています。
これは、一つには、発信者を匿名にすることでメッセージ発信に際しての心理的な敷居を下げるという効果を狙ってのことでしょう。メッセージが気楽に発信できるということは、書く人にもメリットがありますし、メッセージの数が増えればコミュニケーションの場を運営する人や通信業者にとっても利益があります。
しかしながら、情報発信に際する心理的な敷居が下がれば、情報の質が低下することも避けられません。ネットは膨大なノイズで満ち溢れていることはすでに現実の姿であり、利用者もこれを常識と考えて行動するしかありません。まあ、郵便受けに入っているのも、本来の手紙以上に宣伝ビラやダイレクトメールが多いわけで、このような事情は旧来のメディアでもさほど変わらないのではありますが。
第三の問題は、通信の自由、検閲の問題と、迷惑メッセージにかかわる問題です。コミュニケーションの場を運営するサイドが、参加者以上の情報を得ており、メッセージの削除やアカウントの停止などの権限を有するとなりますと、その場の運営に対して法的な責任を負う可能性が生じます。一方で、管理者側のコミュニケーションに対する介入は、通信の自由を侵す行為であり、法律的にも禁止されている、と考えることもできます。
管理するサイドにとっては、法的責任を負うことは経営上のリスクとなりますので、これを回避しようと考えるのは当然といえるでしょう。これが行き過ぎますと、SPAMやアラシといった行為を放置することにもつながるわけで、現実の姿は少々行き過ぎに近い状況にあるように、私には思われます。
メッセージの数の制限などの合理的基準に基づく機械的な処理であれば検閲にも該当しないはずであり、このような技術的な対応はもう少し考えられても良いように思われます。まあ、実際にはかなりの場所でこのような対応は取られており、炎上により運営に障害をきたすような場は少数派であるのかもしれませんが。
インターネットはまだ普及してから20年少々の短い歴史しかなく、これに対する社会的な理解や合意も、いまだ十分であるとはいえません。いろいろな問題があることも確かですが、いまやネットのない生活など考えられないことも確かです。
ネットの社会的側面に関する議論が進めば、ネットに対する人々の理解も深化し、ネットをめぐる問題にも徐々に社会的対応がとられるのではなかろうか、と、私はどちらかといえば楽観的に考えている次第です。
その他、同書を読んで思いましたことをいくつか追記いたします。
まず、毎日新聞は、確かに非難を浴びても当然なことをしていたわけですが、これには新聞が信頼される媒体であることが前提となっております。私などは、新聞はさほど信用に値する媒体ではなく、おかしな記事があったところで不思議はない、との印象を受けるのですね。
むしろ、新聞の信頼性に関する誤解が世間には根強く、毎日の低俗記事などは世間の誤解を解く良いきっかけになるのではないかと思います。まあ、こんなものがなかろうと、日本に住むかなりの人々が読売新聞の押し売りには何度か悩まされているはずであり、新聞社自らによりますネガティブキャンペーンは相当に効果を発揮しているはず、ではあるのですが、、、
既得権益に胡坐をかく既存マスコミに、ネット側の住民として文句のひとつも言ってやりたいとの心情はあるのでしょう。ただそのような心情的な反発は、ネット本来の論理を重ねるタイプの主張のありかたとは相容れず、どうもこのケースはネット論壇本来の姿ではないように私には思われる次第です。
ネットイナゴと称される人々の存在などを見ますと、ネットの参加者側にも多少の問題もなしとはいたしません。ネット利用が盛んな「ロスト・ジェネレーション」と呼ばれる世代の悲惨な状況は社会的政治的な問題ではあるのですが、その立場に置かれた人々が、単なる鬱憤晴らしに満足してしまっていては、自らの問題を解決することにはなりません。
ネットに接続できるのであれば、そこには大いなるチャンスがあると、私などは思ってしまいます。
このブログで昨日まで行った「マクロスで英語のお勉強」シリーズを宣伝するわけではありませんが、英語をネイティブ並に操れるようになれば、それはそれでチャンスをつかむひとつの武器になるでしょう。米国版ヤフーファイナンスの記事を丹念に読み込めば、英語以外に、経済の動きまでわかってしまいます。
その他にも、htmlの書き方をマスターしてホームページ作成代行をはじめるとか、CやJavaをマスターしてカリスマプログラマーの道に進むとか、ネットにつながることさえできるなら、可能性は大いに開けているのですね。
そういう意味で、ネットの参加者には大いにがんばってもらいたいし、このブログで何か支援できることがありましたら、積極的にいたしたいと考えている次第です。できないことができないのは当然ですが、ご要望いただければ、何かできないかどうか、検討したいと思います。
人生あきらめるのはまだ早い、ネバー・ギブアップ、を今日のお言葉とするのがよろしいのではないでしょうか。