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岡嶋裕史「迷惑メールは誰が出す?」を読む

本日は、岡嶋裕史著「迷惑メールは誰が出す?」を読むことといたします。同書は本年10月20日(実は明日)に新潮新書の一冊として発行されました非常に新しい本です。

同書の結論の大事なところを一言で言ってしまいますと「発信者に心当たりのない怪しげなメールがきたら、そこにあるリンクはクリックしてはならず、返事も出してはいけない」ということです。間違って何かしてしまった場合、恐ろしげなメールが来るかもしれないが、相手にする必要はない、ということですね。

実は、2002年に制定されました「特定電子メールの送信の適正化等に関する法律」では、広告・宣伝メールの件名に「未承諾広告」の文字を入れるとともに、メールを送ることで受け取り拒否できるようにすべきことが定められているのですが、「受け取り拒否メールなど送ってはいけない」と同書は助言いたします。

下手に受け取り拒否メールなどを送ると、この宣伝メールを人が読んでいるということが送信側に知られてしまい、カモリストに登録されるなどして、この先大量の宣伝メールを送ってくる可能性がある、というわけです。

この助言は裏を返しますと「この法律を書いた人は相当な間抜けである」という主張と同義でして、この著者の主張が正しいのか誤っているのかと問われますとおそらく、著者の主張が正しい、とまともな人なら判断するでしょう。

まあ、役人の間抜けさが証明されたところで、いまどき誰も驚いたりはしないのでしょうが、、、

さて、同書の内容はきわめてまともであり、メールを使う人であまりインターネットの仕組みに詳しくない方にはぜひ読んでいただきたい本ではあります。でもその分、突込みが浅く、少々物足りないという印象を私は受けました。

そこで、本日はいつものこのブログとは少々趣を変え、同書の内容につきましてはこの本を読んでいただくことといたしまして、この問題に関して私が考えておりますことを書くことにしたいと思います。

まあ、出たばかりの本でもありますし、あまりここで内容をご紹介してしまいますと本の売れ行きを落としてしまう、などということがあるかもしれません。定価税別680円のさして高くもない書物ですし、有益なことは多々書かれておりますので、ここはぜひ本物を読まれることをお勧めいたします。

さて、以前のこのブログで「ヤバい経済学」を読んだことがあるのですが、その中で、クッキーの無人販売における料金の回収率から種々の職場に属する人々の倫理レベルの高低を評価しているのですが、格段に倫理観の低い業界が「テレマーケティング業界」である、などと書かれております。この部分を再録いたしますと以下のようになります。

なお、ポール・フェルドマンのお客の中で、ダントツで回収率が悪い業界が1つあったそうだ。お客の悪口は、普通は言っても何の得にもならないけれど、この業界を相手に商売するのはやめようと思ったほどだということらしい。何の業界かといえば、「テレマーケティング業界」、つまり電話での売込みを専門にやる業界だそうである。

なるほどね。さもありなん、です。証券業界やIT関連業界ではどういうデータが出るのか、少々気になりますね。ま、一部の投資業界や商品先物業界は、テレマーケティング業界と重なっておりますから、そちらの結果はだいたい予想がつくのですが、、、

まあ、これも理由のない話ではないのでして、第一には「倫理観」というものは長い時間をかけて社会的コンセンサスを作り上げることで成立するものであって、歴史の浅い業界には倫理観は「低い」というよりもまだ「確立していない」という側面があるのでしょう。

第二には、倫理観に乏しい人が新しいビジネスに集まりがちである、という確率的な側面もあるのでしょう。と、いうのは、倫理観に優れた人は旧来のビジネスの内部にも止まりやすく、倫理観の低さゆえに旧来のビジネスから弾かれた人々が新しいビジネスに集まりがちである、という側面もあるのでしょう。

もちろん、これは確率的な話であって、新しいビジネスに集う人々のすべてが倫理観が低いと主張しているわけではありませんのでご注意ください。

あと付け加えるといたしますと、第三の理由といたしまして、新しい事業分野は競争が激しく変化のスピードが速く、倫理的側面について検討したり調整したりしている時間的余裕がない、という点もあげられると思います。

いずれにせよ、これらの新しいサービスを利用する側は、この業界がそういう業界であることをよく認識し、自衛にこれ努めるしかない、と私は思う次第です。

さて、同書によりますと、迷惑メールを防止することは非常に難しい旨が書かれておりますが、実はそれほど難しくはなかろう、と私などは思ってしまいます。

私は以前、ネットニュース(ネット上の掲示板のようなシステム)のメッセージを分析したことがあるのですが、機械的に書き込まれるspam(スパム)と呼ばれる迷惑メッセージが分析の邪魔になりました。で、これを機械的に排除したことがあるのですが、実に簡単にできたのですね。

やり方は簡単でして、スパムは同じような文面のメッセージをしつこく書き込んできますので、すでに蓄積されているメッセージと一定割合以上が一致するメッセージは、この手の自動書き込みされたメッセージであると判断して弾くようにしたわけです。

敵もさるもの、わずかに文面を変えたりしているのですが、その手のごまかしを見抜くプログラムぐらい簡単に書くことができるのですね。今にして思えば、この方法の特許を取る作戦もあったかな、などと反省しておりますが、まあ、あとの祭りではあります。

インターネットメールが普及した後、スパムメールも数多く寄せられておりました。まあ、こうなるであろうことは、初期の学術ネット時代からもわかっていたことであり、ネットサービスに参入した初期の人々もこのくらいのことは充分に認識していたと思います。

しかし、システムをサービスする人たちの間に、妙な習癖がありまして、自らの業務の評価を、メッセージの数とかバイト数といった、数で機械的に評価したがる傾向があるのですね。そうなりますと、宣伝メッセージも数には入りますのでサービスの数量的評価は上がってしまう、という問題があります。本来は、自らが生み出した価値で評価すべきであり迷惑メール配信の価値はマイナスなのですが。

これは、当初のサービスが従量制、すなわち送受信したバイト数なり接続時間に従って課金されるシステム採用されていたこととも関係するでしょう。特に、携帯のメールは、長い間従量制が支配的でした。こうなりますと、サービス提供側にすれば、迷惑メールだろうとなんだろうと金になる、あえて排除する積極的なモチベーションは生まれにくかったのですね。

とはいえ、商売の基本は顧客満足にありまして、利用者に不快に思われてしまうようではサービスの基本に反してしまいます。サービス提供側も、徐々に不快メールの排除に動いているのは、おそらくはこういうことに気づいた結果であろう、と解釈しておきます。

ま、定額制の普及がその理由というわけでもなかろうと、ここは好意的に解釈しておきましょう。

さて、この手の迷惑メールの排除は、個人のレベルでも可能なのですが、通信業者のレベルでやることが最も効果的でしょう。つまりは、ネットに同一の文面の記事を送る場合は、登録制にする、ということですね。

こうしておきますと、登録されていない機械的メッセージは自動的に排除されます。登録業者は登録番号などをつけてこれを発信し、通信業者はこれが正しい登録業者によるメッセージでであることを確認して配信すればよいわけです。

もちろん、登録業者は悪質なメッセージを送ることもできるのですが、第一にそれが犯罪的なものであれば、簡単に司直の手にゆだねることができますし、第二に受け取った人からの苦情が妥当なものであれば登録を抹消すればよい、というわけです。

第三に、これは悪魔的な発想なのですが、この手の機械的メッセージには課金する、という手もありえます。こうすればただ乗りも防止できるというわけで、なんともうまい手のように私には思われる次第です。

ありゃ、ひょっとすると、こんなことを書いてはまずいかな、特許をとる前に、、、

な~んてね。まあ、この手の技術は、誰でも自由に使えるようにしておきましょうや。それが世のため、ネットのためではあります。


さて、このような出たばかりの書物のご紹介したことから、私の立ち回り先は容易に推理されてしまいます。まあ、別に秘密でもないのですが、つまり、書店に行った、ということですね。

当然のことながら、気になる書物をいろいろとチェックいたしました。

まずは、養老孟司氏の「唯脳論」が文庫になっております。

少し前のこのブログで、同書に対して批判的なことを書きましたので、この部分が文庫版ではどのように書かれているかチェックいたしましたが、変わってはおりません。問題の部分を引用いたしますと、次のようになります。

ところで、デカルトはこのことに気がついていたのではなかろうか。というのは、彼の言い方は、ラテン語でcogitoだからである。ここには「我」という主格が独立の語としては現れていない。フランス語で言えば、そこには「我」に相当する主語が必要だが、ラテン語なら不要である。だからデカルトは、これをラテン語で言明したのではないか

確かにここではフランス語に対する言及がなされているのですが(原書でも同様です)、デカルトがこれをラテン語で書いた、というのがそもそもの誤りです。あとは、クルーセルのラテン語訳をチェックしてみる必要があり、そこに主語egoが書かれているかどうかが問題となります。ちなみにクルーセルはデカルトの監修の下に哲学原理をラテン語に翻訳しており、そこに主語があるかないかに関しても、デカルトの考えを反映していると考えられますので。

(2017.11.5追記:翻訳者の名前をメルセンヌ神父からクルーセルに修正しました。また、クルーセル訳のこの言葉には主語が入っております。こちらもご参照ください。)

まあ、この問題は、そうそう追求してみてもはじまらないようにも思いますが、有名な言葉に関する真実がいずこにありや、という問題ですので、知を愛するものとしてはぜひとも知っておきたい事柄ではあるのですね。

もう一冊は「哲学がはじまるとき」。とうに裁断されたかと思っておりました同書も、しっかりと書店の棚に並んでおります。同書によりますと、地球の重力の原因は地球の自転であるとのことです。

お~い