先日のブログで、影の因果関係が目に見えない事物の存在を知る鍵になるということを述べ、アリストテレスの月食に関する議論に言及いたしました。このアリストテレスの言葉をつらつら考えておりましたら、少々問題があることに気付きましたので、ここに書いておくこととします。
アリストテレスの月食に関する議論を「形而上学」から引用いたしますと、次のようになります。
たとえば、月食の原因はなにか、まず、なにがその質料か? それには質料はない。月は〔食の質料ではなくて〕食の限定を受ける当のものである。では、なにが月食を起こす始動因か、すなわちなにが月の光を消す原因か? それは地球である。しかし目的因はおそらく月食には存しないであろう。
だが形相としての原因はそれの説明方式である。しかし、その説明方式は、その中に月食の原因が言い表されていなくては不明瞭である。そこで、「月食とはなにか?」に対して、「光の欠如」と言っただけでは不明瞭であるが、「中間に地球の入り来たるによっての」と付言すれば、原因〔始動因〕を含む明瞭な説明方式になる。
ここで、アリストテレスは「月食に質料はない」としておりますが、後ろのほうで「光の欠如」とも言っております。光がなければ影も生じないわけですから、ここは「月食の質料因は太陽からの光である」とすべきであるように私には思われます。
というのは、たとえば大理石の彫刻があったとき、その質料因が大理石であることはアリストテレスも認めるのですが、彫刻は大理石の塊を削って制作するものであり、「大理石の欠如が彫刻である」という言い方だってできるのですね。
その大理石に穴があるとき、その穴の質量因は大理石であるとしなければならないでしょう。
一般に、境界形状が意味を持つとき、質料はその内部にあってもよいし、外部にあっても良い、と考えるべきです。
影絵は存在するかと考えるとき、絵の内部には確かに光が欠如しているのですが、それも光の中で演じられるから見えるのであって、周辺の光が影絵を構成する重要な要素であることは疑う余地もありません。
影の因果というものは、影の形の原因となる遮蔽物(形相因)、それによってさえぎられる光線などの「線(Ray)」、そして遮蔽物が光線を遮るというそのこと自体(始動因)を考えるべきであると思われます。
ちなみに目的因はそれぞれでして、影絵芝居をするのか、骨折を調べるのか(レントゲン写真)などなどのシチュエーションに依存いたします。
われわれが物を見る場合も、光を見る場合もあれば影を見る場合もあります。暗黒星雲を見るというとき、われわれが見ているのは、実は影に他ならないのですから。