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影について

今朝方のブログにちょっと追加をしておきましょう。

影には2種類ありまして、スクリーンに差す光の一部が物体で遮られることによって生じる影が一般的に言われる影ですが、面状に光を発しているものの一部が光を吸収する物体によって遮られた場合もその部分が影となって見えます。

点光源からの光が遮蔽物で一部遮られてスクリーンに影を落とすのと、面状の光の一部が遮られて目に入るのとでは、ちょうど光の向きが逆になっているだけで、目と光源を入れ替えれば同じ関係になっております。

暗黒星雲は、後者に相当する影ですが、液晶画面の黒い部分も似たようなものであり、光の欠如した部分の形を文字として認識しているのですね。そのほかにも、本当に黒い物体というものは、完全な黒体であればすべての光を吸収してしまうため、目には見えないはずであり、光の欠如として知覚されているはずです。

結局のところ、形状のある光の欠如というものは、その形状の原因となった遮蔽物だけではなく光の欠如自体が、外側の光により実在していると考えるべきであるように思われます。つまりは、月食の質料因は光である、といっても差し支えないだろうというわけです。

切り抜いた部分が図柄となります切り絵であっても、その素材が紙であることは論を待たないでしょう。ちくわという質料が失われればちくわの穴も失われます。ちくわの穴はちくわでできているのでして、それが何よりの証拠には、われわれはそれを「ちくわの穴」と呼んでいるのですね。

いまさらアリストテレスの言い分に難癖をつけたところで、だからどうなるということもありませんが、無に意味を認めた老荘の思想(無用の用)が、ここは輝いてみえるところです。