本日は、マルコム・グラッドウェル著「急に売れ始めるにはワケがある」を読むことといたしましょう。
ティッピング・ポイント
同書は、特定の商品の売れ行きや、病気の伝染、情報の伝達などが急激に拡大する現象を分析するもので、セールスに従事している人には興味深い本であると同時に、ブログなどを書いている者に取りましても、アクセス急増などといううれしいことがどうすれば起こるかというヒントを与えてくれそうな本ではあります。
まあ、こういったことがそうそう簡単にできるようなら、だれも苦労はしないのでしょうが。
売れ行きの急増するポイントを、同書は「ティッピング・ポイント」と呼んでおります。「ティップ(tip)」という英単語は「先端(チップ)」や「心づけ・軽打・予想(チップ)」などという意味が一般的ですが、「傾く・傾ける」という意味もあります。
同書によれば、街が傾く(白人居住者が逃げ出す)ポイント(≡ティッピングポイント)はアフリカ系アメリカ人の居住者に占める比率が20%を超えた点である、という1970年代の言い回しをベースとしております。しかしこの言葉、少々政治的にはまずそうな気もいたしますね。
ティッピング・ポイントを超える条件
ティッピング・ポイントを超えるための条件は3つある、と同書はいたします。
第一は、「少数者の法則」です。他者とのつながりを非常に多く持つ人物が、どんな社会にも少数存在し、このような人に情報が伝達される(商品が受け入れられる、病気に感染する)と、情報(売り上げ、伝染)は急速に拡大いたします。
第二は、「粘りの要素」であり、爆発的に広がる情報(商品、、、)にはそれなりの理由、すなわち「粘り」がないといけません。
第三は、「背景の力」であり、環境的な要素で人の行動は左右される、といたします。
扱われた話題
これらの法則に付き同書は例を挙げて説明するのですが、同じ話が何度も現れまして、少々くどい印象を受けます。ちなみに、話題となりました事例は次のものです。
- ハッシュパピー(靴)の爆発的売れ行き
- 性病の感染
- 独立戦争初期の英軍情報の伝播
- セサミ・ストリートとブルーズ・クルーズ(幼児向けTV番組)
- NY市の犯罪(割れ窓理論)
後半では、いくつか独立した話題が扱われます。
一つは150人の法則というもので、組織がうまく機能するためにはその人数は最大150人であるという経験則です。
もう一つは10代の自殺と喫煙ですが、これは、ティッピングポイントの問題とは少々異なる話題であるように私には思われます。
指数関数と特異点
さて、内容詳細は原書をあたっていただくことといたしまして、以下は私の感想を幾つか述べさせていただきたいと思います。
まず第一に、指数関数を「ある点から急激に増加する」とする考えが根強いのですが、数学的には指数関数は等比級数であり、どの点をとっても相似形をしております。つまり、縦軸を拡大・縮小したものが横軸を左右に移動させたものと同じ形となります。
紙を50回折りたたむとその厚さは地球と太陽の間の距離になる、というような話題は、確かに素人をびっくりさせる話でして、どこかで厚さが急激に増加するという予見を抱かせるのですが、これは2の50乗がどの程度の大きさになるかを知らないから驚くだけの話です。
ただ、指数関数的増加に特異点がないというのは数学上の話であり、体感上は急速に増大する点が存在いたします。これは、「等身大の点」あるいは「注目に値するサイズ」が存在することによります。
つまり、目の前にある棒の高さが倍々と大きくなっていく状況を考えますと、数字上は倍々であってどの瞬間も変わりはないのですが、1cmが2cmになったところでその変化は微小ですが、人の身長を越すあたりでは、変化は急速に生じたと感じられるでしょう。
茶碗の米粒を倍々と増やしていく場合も、1粒が2粒になったところでさしたる変化はないのですが、茶碗の容積に匹敵する量が二倍に増えればその変化は大きなものとして感じられるでしょう。
信号振幅が倍々と増加する場合も、ノイズに埋もれている間は気付かないのですが、その信号を感知できるようになり、日常的に観測される信号レベルを超すあたりで、その変化は大きなものとして感じられるはずです。
と、いうことは、指数関数的、等級数的変化において、ティッピングポイントとは単に日常的なレベルなのであって、観測する側の問題ということになります。対象に何か特別なことが生じているということではないのですね。
分枝過程(ブランチング・プロセス)
同書で取り扱われている、商品の売れ行き、病気の感染、情報の伝達などの時系列現象は「分枝過程(ブランチング・プロセス)」という名で知られている確率過程に他なりません。
ブランチングプロセスは、事象が(1)単位時間当たり一定の確率で自然発生するとともに、(2)すでに生起した事象がある時間後に他の事象を引き起こす、という二つの要素で生起する場合に適用されるモデルです。
新製品の売り上げに関しては、「バスモデル」と呼ばれる予測式が知られております。これは、自分自身の判断で新製品を購入する「イニシエータ」と、他人が使用しているのを見て新製品を購入する「イミテータ」が存在すると仮定して、初期の新製品売り上げデータからイニシエータとイミテータが市場にどの程度存在するかを推定して売り上げを予測する手法です。
電子掲示板へのメッセージの書き込み数の変動も分枝過程で説明できまして、外的要因で書き込まれるメッセージと、他のメッセージに誘発されて書き込まれるメッセージが存在し、これらの和として日々に書き込まれるメッセージ数が決定いたします。
同様のモデルは、核分裂反応やレーザの誘導放出にも適用できます。つまり、ウラニウムの一部は自然に中性子を放出する一方、中性子の当たったウラニウムは核分裂して中性子を放出し、これがさらに核分裂を引き起こす、というわけです。
分枝過程の面白いところは、好ましい変動のあり方が、急峻な立ち上がりを要求される場合と、安定性が要求される場合の二通りありまして、新曲などのように一気に人気商品にしたい場合には急峻な立ち上がりを目指す一方で、製造能力に限界があるなどの理由で息の長い製品を目指す場合は安定性を要求します。
核分裂の場合も、核爆弾なら急峻な立ち上がりを目指しますし、原子炉であれば安定性が要求されます。病気の感染は、細菌兵器としては急峻さを、病院の経営を考えれば安定性を好ましいものとするでしょう。
同書が扱っているいくつかの例は、自治体などが適切な手を打たないがゆえに感染が拡大した可能性が濃厚です。感染症の流行などは、社会的に問題が小さな時点で、患者の数の推移を注意深く分析すれば、将来患者数がどのように変化するかはかなりの確度で予測可能であり、適切な手を打つことができます。
結局のところ、行政には数理科学の専門家も必要であり、各種データの数値を見守り予測を続けるという機能もなければいけない、ということなのですね。マーケティングが適切になされている企業では、この程度のことは行われていると思いますが。
増大比率を拡大する条件
さて、ティッピングポイントは観察者側の事情によるとなりますと、ティッピングポイントのレベルはさほど問題ではありません。しかし、その前提となります指数関数的な流行の拡大におきまして、増大比率そのものは重要な問題であり、同書が述べます「ティッピングポイントを超える条件」とは、増大比率を拡大する条件と言い換えても良いように思われます。
この条件といたしまして、同書は3点をあげております。このうち、第二第三の、「粘り」と「環境の力」は、いわば、当然の要素であり、第一の「少数者の法則」が面白い点であるといえるでしょう。
実は、インターネットコミュニケーションにかかわるいくつかの研究でも、中心的人物の存在が認められております。中心的人物とは、世話を焼くのが好きな人物であり、この人物の周囲に彼とコミュニケートする多数の人々が群がりコミュニケーションが行われます。
このような現象が、ネットの世界だけでなく、一般社会における人間関係においても成り立つ、というのが同書の指摘であり、このような人物に情報が渡ると情報は一気に拡散し、商品は爆発的に売れる、というわけです。
性的感染症の場合は、多数の異性と頻繁に交わる人、というわけで少々怪しげな世界になるのですが、新製品の場合には製品情報で頼りにされる人(通人:メイヴン)がこれにあたり、情報の拡散においては人付き合いの範囲の広い人がこれにあたります。
電子掲示板のコミュニケーションにおいても、特定のメッセージに応答が集中いたします。しかし、あまり応答が集中すると対応ができなくなるという問題が生じます。ボードの運営においては、コンスタントに盛り上がってくれることが好ましいわけで、過度の集中は運営に支障をきたすことになります。
ブログも、人気ブログとそうでないものが混在いたします。こちらは、一般には人気になってくれることが書き手としてはうれしいのでしょうが、これにもおのずと限界があり、特に批判的なコメントが多数寄せられるようになると対応ができなくなります(ブログ炎上)。
連鎖反応を支配する因子
一般的にいえば、連鎖反応的な時系列現象は、ある事象の発生が他の事象を引き起こすことを基本としているのですが、この現象に影響を与えるいくつかのパラメータがあります。
第一には、ある事象が引き起こす他の事象の数の平均値が大きな意味を持ちます。つまりこれが1以上であると、連鎖反応は指数関数的に増大し、いずれは物理的限界に至ることとなります。
第二には、ある事象が発生してから、これによって他の事象が引き起こされるまでの時間間隔で、この時間間隔が短い場合には短時間に爆発的な増加が生じます。
第三には、ある事象が引き起こす他の事象の数の分布が問題となるケースがあり、これがほぼ一定値である場合には、比較的安定した過程となるのですが、特定の事象とこれによって引き起こされた事象が特に多数の事象を引き起こす場合には、全体として非常に不安定な状況となります。
第三のパラメータは少々判りにくいので、例をあげて御説明いたしましょう。
例えばコメントで盛り上がるタイプのウエブであれば、どの記事にも同じような数のコメントが寄せられれば安定した運用が可能なのですが、特定の記事のみにコメントが集中いたしますと、十分な対応ができなくなってしまいます。
新製品の売れ行きにしても、どの製品も適度に売れてくれればよいのですが、たまに爆発的に売れるということになりますと、あるときには注文に応じきれない一方で、売れない製品の在庫の山ができてしまいます。
このような現象を数学的に記述することは大変に面白いのですが、文字数の限られたこのブログでは少々難しいように思います。この件に関しましては、いずれ、独立した文章の形にまとめてホームページに置くようにいたしますので、ご期待いただきたいと思います。
(2020.4.6追記:ブランチングプロセスの数学的な扱いを含む私の修士論文を、このブログの固定ページ「悲しきネット」に置いております。ご興味のある方はご参照ください。)
と、いうわけで、本のご紹介を大幅に逸脱してしまいましたが、同書は厳密な議論からは少々問題のある記述も散見されるものの、個々の現象は大変に興味深く、読んで損をしたとは思わせない書物であるように私には感じられた次第です。
それにしても、喫煙と鬱に関係があることは、同書ではじめて知りました。禁煙は鬱の危険を伴うということで、禁煙運動も、そのリスクについて熟慮する必要がありそうです。