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山本七平著「日本はなぜ敗れるのか」を読む

本日は山本七平著「日本はなぜ敗れるのか」を読むことといたしましょう。同書は、1975年から翌年にかけて雑誌「野生時代」に掲載されました非常に古い論評ですが、今日におきましてもその内容は古びておりません。つまり、山本氏が強く批判いたします日本人のヘンなところが、今日なお残されているからでしょう。

この本の帯(腰巻ともいう)には、「奥田碩会長が『ぜひ読むように』とトヨタ幹部に薦めた本」などと書かれております。もちろん、奥田氏が会長を務めておりました時代は過去の話ですから、これをもって今日のトヨタがどうの、というのは少々あたっていないかもしれません。

でも、この本を幹部職員に読めという時代が過去にあったということであるにいたしましても、これはトヨタのすごいところであるように、私には思われます。ま、早い話、トヨタの株をホールドしているのは正解であろう、ということですね。しかし、本日はそのような銭勘定を離れて同書を読むことにしたいと思います。

同書は第二次大戦中に、サトウキビから生産されますアルコールをガソリンの代替燃料として使用しようという(最近も似たような話を聞いたことがあるような)発想の元にフィリッピンに送り込まれましたアルコール製造技術者、小松真一氏の日記から、日本の軍部の問題点を解析した書物です。で、その問題点は、今日の日本社会にも脈々と受け継がれております。

ここで山本七平氏が指摘いたします今日の日本の問題といいますのは、同書が書かれました30年ほど以前の日本におけます左翼やマスコミの問題です。しかしながら、同様の問題は、今日の経営組織の中にも脈々と受け継がれておりまして、であるが故に、奥田氏はトヨタ幹部に同書を読むように薦めたのでしょう。

さて、小松氏が指摘いたします「日本が負ける理由」は、最初のページに全て明かされております。すなわち、以下の21カ条です。少々長いですが、これが同書のエッセンスですから、以下に再録しておきましょう。

1.精兵主義の軍隊に精兵がいなかったこと。然るに作戦その他で兵に要求されることは、総て精兵でなければできない仕事ばかりだった。武器も与えずに。米国は物量に物言わせ、未訓練兵でもできる作戦をやっていた。
2.物量、物資、資源、総て米国に比べ問題にならなかった。
3.日本の不合理性、米国の合理性。
4.将兵の素質低下(精兵は満州、支那事変と緒戦で大部分は死んでしまった)
5.精神的に弱かった(一枚看板の大和魂も戦い不利となるとさっぱり威力なし)
6.日本の学問は実用化せず、米国の学問は実用化する
7.基礎科学の研究をしなかった事
8.電波兵器の劣等(物理学貧弱)
9.克己心の欠如
10.反省力なきこと
11.個人としての修養をしていない事
12.陸海軍の不協力
13.独りよがりで同情心が無い事
14.兵器の劣悪を自覚し、負け癖がついた事
15.バアーシー海峡の損害と、戦意喪失
16.思想的に徹底したものがなかったこと
17.国民が戦いに厭きていた
18.日本文化の確立なき為
19.日本は人命を粗末にし、米国は大切にした
20.日本文化に普遍性なき為
21.指導者に生物学的常識がなかった事

まず山本氏が注目いたしますのは、21カ条に唯一地名がでてきます「バシー海峡」です。太平洋戦争の激戦地としてはほとんど知られておりませんこの海峡は、敵潜水艦が待ち構える中に大量の兵員を搭載したぼろ舟をつぎつぎと送り込んで沈めてしまった場所であり、払わなくても良い莫大な犠牲を払った場所です。同書はその理由を以下のようにまとめております。

バシー海峡ですべての船舶を喪失し、何十万という兵員を海底に沈め終わったとき、軍の首脳はやはり言ったであろう。「やるだけのことはやった」と。

これらの言葉の中には「あらゆる方法を探究し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただ一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するために投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出し切ったとして自己を正当化しているということだけであろう。

第7章の「『芸』の絶対化と量」もなかなかに面白い章でして、ここでは第1か条の「精兵主義の軍隊に精兵がいなかったこと」の意味が語られております。日本軍は兵を鍛え上げ「精兵」とすることにより量的な劣勢をカバーしようとするのですが、この考え方にはいくつもの欠点があります。

第一に、第4カ条にありますように、鍛え上げた精兵は緒戦において死んでしまっております。精兵には交代要員がおらず、その後に挑発された兵士はろくな訓練も受けてはおらず精兵とはなれません。また、兵器や状況の変化により、一芸に秀でる精兵もその存在価値を失ってしまいます。

日本文化に関する条項がありますことも注目すべき点でして、日本人は日本文化を唯一絶対のものと考えており、これを相対化してみることができないため、他国の文化風習を理解することができず、こういった人々の協力を得ることに失敗しております。

これを私流に理解いたしますと、ワープロで一太郎しか知らない人が「一太郎最高!」と言っているのと同じであって、傍からみれば馬鹿みたいな話です。各種ワープロソフトを使いこなした上でそう判断しているのなら良いのですが。ま、これが男女の関係なら「ウチの嫁さん最高!」に異を唱える気はありませんが。

最後の「生物学的常識」という条項は奇異な印象を受けますが、要は兵士といえども生身の人間であり、食料が必要である、ということなのですね。生物学的な生存の条件が満足されなくては軍隊という組織を維持することもできなくなります。

と、いうわけで、以上、同書からいくつかの点についてご紹介いたしました。同書の内容につきましては、御興味のある方には同書を読んでいただくことといたしまして、以下では、内容のご紹介よりも、何故にこのような形になってしまったかという原因を探るとともに、何故に奥田会長が同書をトヨタの幹部職員に読ませようと考えたのかという点に付きまして、議論したいと思います。

まず、同書を読みますと、日本側のあらゆる箇所で無能な人物、無能力化された人物が目立ちます。武器を持たない兵隊、活躍の場を与えられない技術者、威張ることしかできない将校、そして大本営自体も現場を知らず、無謀な作戦をいつまでもつづけております。

組織の能力とは、その組織を構成する個々の人の能力の総和でもあり、個々人が能力を発揮できない組織は、その全体の能力も著しく低下してしまいます。成員を無能力化する組織が力を発揮できるわけもなく、勝てるわけもありません。

では、そうなった原因は何か、どこに問題があったのかという点が次の問題となります。

もちろんこれを「すべてトップの責任である」と言い切るのは簡単なことであり、それはそれで事実なのでしょうが、それではどうすれば良いかと問われたとき、「トップに有能な人物を据えれば良い」という解は、ないものねだりであり、実行可能解ではない場合が多いでしょう。

組織の問題とは、つまるところは組織文化の問題であり、これを具体的に言えば、組織の行動規範の問題である、ということもできるでしょう。

同書から読み取れる一つの問題は、「実数」よりも「員数」を優先する点があげられます。員数とは形式上、書類上、建前上の数字であり、現実と一致している保障はどこにもありません。

軍隊に見られる員数あわせの話を聞いておりますと、ばかげた話であり、今日の我々とは無縁の話だと思われるかもしれませんが、実は今日の日本社会のあらゆる場所で、実数よりも員数が優先されるという例が普遍的にみられます。

たとえばあらゆる組織で行われております会計に付きましても、必ずしも実態を反映したものとはなっておらず、数字をいじるということは、多くの組織で日常的に行われております。

会計は“GAAP:Generally Accepted Accounting Principles”と呼ばれる会計公準(基本的ルール)に従って行われているのですが、国際会計公準の一項に“Substance over form principle”「実質は形式に優先する」という一項があります。

この言葉は公準ですので短縮化されておりますが“Substance over the form”と、定冠詞を付けるのがしっくりいたします。わが国では“Form over the substance”的な考え方が随所にみられるのですが、これをまず直さなければなりません。

これはわが国においては特に困難なことでもあるように私には思われます。形を重んじる、という考え方は、実は日本文化の伝統であるともいえます。礼に始まり礼に終わる武道であるとか、あらゆる動作に約束のある茶道もそうですし、能、歌舞伎などの伝統芸能などに共通いたしますことは、形の重視です。

しかし、文化芸能の世界は、日々変動するビジネスや戦争の世界とは異なるものであり、わが国の古典文化が形を重視しているからといって、なにから何まで同じようにやらなければいけないということにもなりますまい。

もちろん、大規模な組織経営に際しては、明文化された規約が必要であり、各部署の役割も文書で規定されていなければなりません。形式には形式の意味があることも事実であり、組織の一員としては一定の形式の元に業務を遂行することが要求されます。

形式と現実の調和を図るためには、各場所における個々の担当者の判断に委ねるしかなく、それぞれのポジションに必要な判断力を有する人物を据えることと、適切な権限の委譲が必要となります。また、組織経営に際して指示がトップダウンの形で与えられることは当然なのですが、それが実行可能であるかどうかを、指示を与えられたポジションの人間が正しく判断できなければなりません。

ひとたび無能な人物が重要なポジションに付きますと、彼は実行可能性を判断することなく、上からの指示を下へと流します。ひとたび上からの指示を受け入れた以上、その指示は実行されなくてはならず、部下が実行可能性に疑問を唱えたところで、これに耳を傾けるわけにはまいりません。

組織がひとたびこのような状態に陥った場合、見掛けの上では粛々と運営されているかにみえる組織も、現実と建前が遊離し、実態はぼろぼろであるということにもなりかねません。まさにそういう状況に陥ったのが太平洋戦争の際の日本軍であった、ということができるでしょう。

このことは、今日の経営組織全般にも当てはまるケースが多いように、わたしには思われます。形式重視の組織形態は、物事が予定通り進んでいる場合は、内部に少々の問題を抱えていたところでうまく運営できるのですが、ひとたび齟齬が生じると、これへの対応がうまくできないことになります。昨今の経済危機も、組織の問題点を洗い出すには良い機会ということになるでしょう。

以上、漫然と私の思ったところを書いてまいりましたが、早い話が日本は前途多難であるということでして、同書を幹部に読むように薦めた奥田前会長ないしトヨタの幹部はそれに気付いているのではないか、という印象を受けた次第です。

なにぶん、元となりました書物の内容が非常に重たい話であり、私自身これをすっきりと消化できてはおりません。本日のブログが少々散漫な内容となってしまったことにつきましては御容赦ください。