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中川淳一郎著「ウェブはバカと暇人のもの」を読む

本日はこの4/20発行の非常に新しい新書「ウェブはバカと暇人のもの―現場からのネット敗北宣言」を読むことといたしましょう。

なんか、ブログにこんな言葉を書きますと炎上必至という感じもいたしますが、幸いわたしのスタンスは同書の著者とは少々異なっておりますので、多分大丈夫でしょう。まあ、そうであってくれることを願いながら、以下同書をご紹介することといたします。

同書は5章構成で、章立ては以下のようになっております。

第1章 ネットのヘビーユーザーは、やっぱり「暇人」
第2章 現場で学んだ「ネットユーザーとのつきあい方」
第3章 ネットで流行るのは結局「テレビネタ」
第4章 企業はネットに期待しすぎるな
第5章 ネットはあなたの人生をなにも変えない

まず、著者の価値観を少々疑いますのが「暇人」に対する偏見でして、毎日夜遅くまで仕事をしている人が立派な人であり、ネットの読み書きに時間をかけているのは唾棄すべき「暇人」である、ということが著者にとっては常識となっておりますように受け取られます。

実際問題といたしまして、自分が好きなように使える時間をもつことは、自分が自由に使えるお金をもつことと同じ程度に大事なことであって、仕事が忙しくて自由な時間がないことは、それはそれで不幸なことであるようにわたしには思われます。

もちろん、経済的に困窮して、生命の維持にも問題があるようであれば、自由な時間などいくらあってもどうしようもありません。しかし、いかにばかげたメッセージであろうとも、ネットに書き込んでいられるということは、そうそう不幸な状態でもないはずであって、これを「暇人」などといってバカにする理由はないはずです。

そもそも文化などというものは、自由な時間が使えるようになってはじめて生まれるものであり、ネットに「暇人」が多いということは、ネットが新たな人類の文化を生み出す土壌となる可能性すらあるように、わたしには思えるのですね。

たしかに2チャンネルや、ヤフーファイナンスの掲示板などをみておりますと、あまりにも程度の低いメッセージが大量に書き込まれていることは否定すべくもありません。しかしその一方で、他では得がたい情報も、そこにはみつけだすことができます。

もとよりウェブ、ネットというものは、多様性に特徴があり、これを十把一絡げに平均値で議論することは意味がありません。そこからいかに重要なメッセージを引き出すか、必要としている人の元にいかにメッセージを届けるか、ということが重要である、とわたしは考えております。

ということを前提といたしまして、同書を少し読んでみようと思います。

まず、第1章で次のような文章があります。

犯罪行為を通報すること自体は正しい行為である。だが、その人物がどんな性癖を持ち、過去にネットでどんな発言をしていたかまでを徹底的に洗い出す必要はあるのか?

これは、「正義の行為」から逸脱した単なる「いじめ行為」である。彼らを処分するのは警察や所属団体だけでいいのではないだろうか。

この文章は、しかし、今日のマスコミにも向けられるべき言葉です。先日のブログでも述べましたように、最近のマスコミは悪者を探し出して徹底的にたたくことを繰り返し行っております。以前「ニュースの重さ。東横イン事件に思うこと」と題して書きました東急インの社長の言葉「まさかこれがこんな大きなニュースになるとは思わなかった」には、まことにごもっともといいたくなります。

とはいえ、マスコミが駄目だからネットも駄目でよい、ということにもなりません。ネットで他人をののしる行為は、それが有名人や地位の高い人など、妬みや嫉みを買いやすい人に向けられるケースが多く、これをたたくことで憂さ晴らしをする、というのも寂しい行為です。ヤフーファイナンスの掲示板で、株価が下がると大喜びするメッセージも、これと似たような心情の元に発せられているのでしょう。

しかし、そういう人が存在することは事実なのであって、これを嘆いてみたところでなにが変わるわけでもありません。そもそも悪いことをするから大いにたたかれるわけであって、ネットの上であろうと、あまり悪事を働いたりしないほうが良い、記事の書き方には気をつけたほうが良い、というだけの話であるようにわたしには思われます。

意味のないメッセージは読み飛ばせばよいだけの話。ハードディスク録画でCMを飛ばして聴取するのとなんら変わりはありません。

第2章では、ページビュー(アクセス数)を上げるためのテクニックについて語られます。その結論は「結局、B級ネタがクリックされる」の一言に要約されるように、扇情的な見出しや芸能もの、エロ、美人、などなどの低俗な内容がアクセス数を稼ぐというのですね。

そしてこれがテレビに連動している、ということが第3章で語られます。で、第4章では、ネットでページビューを稼いだところでたいした宣伝にもならない、だから企業はあまりネットに期待してはならないということになり、第5章では、今度はネットに参加する個人もなんら変わることはできないのだ、という結論になります。

さて、この内容は、たしかにネットで企業広告を打とうという現場の人の言葉であることから、それなりの重みは持っております。しかし、わたしには、どうもこのアプローチは出だしから間違っているのではなかろうか、と思われるのですね。

まず,暇があるけどお金がない人がテレビをみたりネットにアクセスをする人の多くを占める、という分析は正しいでしょう。したがって、ページビューを上げるためには、こういう人たちに受けるネタを供給しなければならないことも確かでしょう。そういたしました結果、ネットでいくら宣伝しても、相手にお金がないために、たいした売り上げにはつながらない、となるのもまた必然的な流れということになります。

宣伝は潜在的な顧客に対して行わなければなりません。ページビューがいくら高かろうとも、顧客になり得ない人が相手では話にならず、「B級ネタ」が顧客になり得ない人に受けるのであれば、これを前面に押し出すのは大間違い、ということになります。

テレビは単一の番組を流しており、まず視聴率をとらなければ話になりません。しかし、ネットの場合は、いくつものページを作ることができます。高収入の人を相手にしようと思うなら、高収入の人が好んでみるようなページを作ることがまず大事なのであって、B級ネタでページビューをとるようなことをやっていては、納豆ぐらいしかヒット商品が生まれないのも当然であるといえるでしょう。

そもそも、テレビでCMを打つ際にはまず番組というものが存在いたします。ネットでCMを流す際に、なぜ番組を作ろうと考えないのかが不思議です。全編これCMなどという番組はだれもみようとは思わないでしょう。ネットのページを民放の番組であると考えるなら、その内容をターゲットとなる潜在顧客に合わせて専門家に作らせればよいわけです。

まあ、B級ネタてんこ盛りのページならたいした費用もかけずに作ることができるでしょう。しかし、高収入の人が満足するようなページであれば、それ相応の専門家に執筆を依頼する必要もあるでしょうし、それなりに費用もかかるはずです。

これを具体的に述べますと、たとえばJR東日本の新幹線に乗りますと「トランヴェール」という広報誌が座席の前に挟まっています。そのメインはJR東日本管内の名所旧跡について解説する記事なのですが、各界の専門家が執筆するその内容は、相当に奥の深いものとなっております。

そういえば、トランヴェールの今月号の特集は7年に一度の善光寺の御開帳。その秘仏の縁起は、同誌4月号によりますと以下とのこと。

『善光寺縁起』によると、本尊の誕生は仏教の故郷天竺(インド)でのこと。月蓋(がっかい)長者が阿弥陀如来によって一人娘の如是姫の病気を治してもらったことを喜び、その姿を像にして祀っていたが、朝鮮半島の百済を経て、欽明天皇13年(552年)日本に仏教が伝来したとき共にもたらされたという。

その後、廃仏派の物部氏によって難波の堀に捨てられたが、信濃の住人・本田善光によって信濃に運ばれ、皇極天皇元年(642年)、現在の地に遷座されたとされる。

最近どこかで似たような話を目にいたしました。さて、平成の秘仏、果たして新しい伝説を作り出すこととなりますでしょうか。

ちょっと話がどこかに飛んでしまいましたが、つまるところ、これに似たことをネット上のページで行えばよいわけで、高収入の人向けの話題であれば、芝居のこと、高級なレストランやバー、ガーデニング、ちょっとリッチな旅やクルーズ、海外のあまり知られていない名所の紹介など、いくらでもテーマは考え付きます。こういうページづくりであれば、私もやってみたいですね。当然、取材、ということが必要になりますので、、、ま、費用は結構かかると思いますが、その節はぜひとも御連絡ください。

ネット上では一休のアプローチがこれに近いかもしれません。しかし一休はホテルの予約に特化したサイトであり、旅の楽しさや見所などを紹介するものではありません。旅で攻めるなら、作家や研究者に名所旧跡の薀蓄を語らせるなどの掘り下げがほしいところです。

結局のところ、バカに付き合ってバカなことをやっていたのではバカになるだけでして、こんなことをして人は変われるわけがありません。そんなことをするくらいなら、たしかに著者の書いておりますように、ネットなどあきらめて新幹線に乗ってどこかに出かけたほうがよほどましです。

しかし、ネットの世界には馬鹿でない人も大勢おられるわけで、そういうページから自分が必要とする情報を取り込むのは、決して無駄なことではないでしょう。また、質の高い情報を発信することは、その行為自体が意味があると、わたしは考えております。

もちろん、書いて公表する以上は、読者が多いに越したことはないのですが、より良質な内容とする目的であるならともかく、単にアクセス数を稼ぐことを目的として内容にまで手を加えるのは少々おかしいし、何のためにこんなことをしているのか、わからなくなってしまいます。

そのあたりは、商売でネットと付き合う著者の立場と、あくまで知的な遊びとしてネットに付き合うわたしの立場との相違かもしれません。もちろん、商売することは悪いことではありませんが、人生がそれだけというのも少々わびしい、というのが同書を読みましての私の感想です。