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「意識をもった機械の詳細」について

Popula(@populajp)さんから意識を持った機械の詳細」の議論の前の気になることと題して以下のご意見を頂きました。

「意識を持った機械の詳細」文中の「意識」というものも人間の「感情表現能力」のことであれば、問題ないのですが、そうでもそうでもなさそうなので、一言すみません。

意識を「実感(あのような赤さの実感、あのような苦しさの実感、ここに居るという実感)」ということの理解であれば、本文はすこし先走りがあるように感じます。

<理由>
都合上、私の名前をPopulaとします。
(1)意識(実感)の非対称性
Populaの「意識(実感)」は、全ての他人とは異なる、Populaを唯一の特別な「自分」として存在させている属性を持っています。
(2)意識(実感)の対称性
ところが、他人にも、その「意識(実感)」がある。とすると・・・
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(1)(2)を同時に満たす論理はありません。もし、(2)が正しいなら、Populaは、他人のことも「意識(実感)」できるはずです。他人もPopulaにとっての「自分」でなければならないのですから。
結論は
ア)(2)は実は幻想である か、
イ)「意識(実感)」は相互に存在を確かめる方法がない(言い方を換えれば、個々人の「意識(実感)」は、相互に覗けない別の「世界」に棲んでいる)。
のどちらかです。
⇒ ア)であれば、他人のことを考える範囲においては、「意識(実感)」は幻想(あるいは存在しないもの)
⇒ イ)であれば、論理的空間の外にある世界を(もちろん科学的にも)扱う方法はない。
であり、どちらにしても、論理的に(哲学でも、科学でも、物理学でも)取り扱える範囲を超えています。

この整理を先にする必要があると思うのですが、どうでしょうか?

これにつきましては少々複雑な内容を含みますので、こちらに私の意見を書かせて頂きます。

まず、私の論は、「人を客体(対象)としてみた場合、そこには何ら超自然的要素はなく、全てが物理現象として説明される」という確信を前提としています。この部分に異論があっても不思議はないところですが、少なくとも現在の自然科学はこの確信に基づいている、と私は理解しています。

この前提を受け入れる限り、人の精神活動と同じ働きをする装置は人工的に作成することが、少なくとも原理的には、可能であると言えます。それが現時点で作れない理由は、人の脳の複雑さにあるのであって、同様な機能を有する装置を製作することがその規模のゆえに技術的、経済的に困難であるからに過ぎません。

では、意識なりクオリア(質感)なりはどのように説明されるかといいますと、これらは意識をもつシステム内部で生じる「状態」である、と私は考えています。つまり、「赤の質感を感じている」ということは、「特定のニューロン(群)が活性化した状態」ということに対応します。

意識もこれに類似した現象なのですが、意識は質感に比べますとかなり複雑であり、もう少し説明が必要でしょう。

人の精神活動には、意識的な活動と無意識的な活動の二種類があります。ここで、無意識的な活動とは、フロイトがいうような「無意識」とは少々異なり、半ば反射的な精神活動を意味します。

たとえば英語で語るとき、ネイティブの人間であれば、文法などを考えることなく自然に言葉が口をついて出てくるのですが、外国語として英語を学び始めた人であれば、記憶を探って適当な単語を選び出し、文法規則に合うようにこれを変形し並び順を考えたうえで言葉をつくりだすことになります。

この場合の前者が無意識的な精神活動であり、後者が意識的な精神活動である、と呼ぶことといたします。同様な二分法は、スポーツでの身体の動きや、将棋などのゲームにおける判断においても、あるいは議論における対応やさまざまな問題に対する解を見出す際などにもあてはめることができます。

無意識的な活動は、それが正しく習得されたものであれば、意識的な活動よりもはるかに効率的です。しかし、その習得には長期間の訓練が必要であり、通常は限られた分野のみに適用は限られます。

これに対して意識的な活動は、遅いし一度に複数の問題に対処することも難しいなど、無意識的な精神活動に比べて劣る面も多々あるのですが、多くの問題に応用可能で、新しい問題にも対処が可能という優れた特徴があります。特に、書物やネットなどの補助的な情報源を活用することで、その適用分野は無限に拡大することができます。

おそらくは人の脳には、多目的な精神活動を行う部分と特定の活動を行う部分があって、前者が意識的な活動に、後者が無意識的な活動に対応しているのでしょう。そして、無意識的な精神活動を行う部分は、生まれながらにしてプログラムされた部分もあるのでしょうが、意識的な活動を繰り返し行うことで新たなニューラルネットワークが形成され、無意識的な処理が新たに可能になるといったことも人の脳の内部では行われているのではなかろうか、と私は想像しています。

そして、意識的な精神活動が、文字通りの「意識」に対応していると考えれば、意識も特定のニューロン群の作用であると考えることができます。

さて、以上のことは人の精神活動を客体として考えた場合、自然科学の対象として扱った場合にいえることなのですが、ではお前の意識は何であるか、何がかようなことを考えているのか、という点が次の問題になるでしょう。つまり、脳を客体とみなし、自然科学の対象であるとすることを認めるとしても、そう考えているのは自分自身の脳の作用だというのはおかしい、というわけですね。

しかし、この二つの間には何の矛盾もありません。人の脳は客体としてみれば物理法則に従う自然現象に他ならないのですが、その自然現象の結果として私の意識が生まれ、他の人の内部にも私が意識している自らの主観と同様の精神活動が存在すると考えたところで何の問題もありません。

対象が持つ意味は唯一であるわけではなく、同じ対象に対してもさまざまな見方ができます。

私たちが漫画を読めば、そこには豊かな物語の世界を見出すことができるのですが、コミック本の物理的実体は紙の上にインクが付着しているだけの存在であり、自然科学の対象としてみればそれ以上でもそれ以下でもありません。漫画家が漫画を作る際には、紙とインクを用意し、紙の上にインクを付着させるという作業を通してはじめてそこに漫画を描き出すことができます。

もちろん、漫画家はそれ以外に漫画のストーリーや構図などの作品内容に心を砕いていることは言うまでもありません。漫画は物理的実体と作品内容の双方があってはじめて存在できます。その漫画について考察する際には、いずれの側面に注目して考えることもできますし、両側面をともに受け入れても何の矛盾も生じません。

物理的実在としての人と、その人の意識についても同じことが言えるのではないか、と私は考えている次第です。ご納得いただけますでしょうか?