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王さまは裸だ

イケハヤ書店からリンクをたどってたどり着いたこれこちらにリンクがあります)ですけど、面白いですね。

私は流行モノには手を出さない主義なので、当然のことながら、この本も読んではいないのですが、上記リンクの書評(?)を見ますとなんとなくこの主義が心強くなります。

こんな文章をブログに書くとなりますと、本来なら、原書を一読すべきところ。でもここは書評の面白さについて論評するということで、ご勘弁いただきたいと思います。

王様の裸なんぞ、見たいとも思いませんし、、、


上に書きました文章は少々不穏当な印象を与えるかもしれませんので、多少追加しておきましょう。

まず、私が流行モノには手を出さないようにしているのは、他人と同じことを考えるようになると少々困るという研究者の事情によるものでして、他人とは異なるオリジナルかつユニークな視点を大事にしたいと考えているからです。

そういう意味からは、上でご紹介いたしました書評は非常にユニークなものです。ただし、これが100%妥当かとなりますと、問題なしとはいたしません。

村上春樹の書物につきましては、このブログでも一冊だけご紹介しております。何で主義を曲げてそんなものを読んだかという事情につきましてはこちらをご参照ください。その後、マンガの国ニッポンを読みまして気づきましたのが、これは少女マンガである、ということなのですね(参考。)

で、最初にご紹介いたしました書評ですが、この方が何も知らずに少年漫画を読むつもりで少女マンガを読んでしまったら、あるいは、普通の演劇を鑑賞するつもりで間違えて宝塚を見てしまったりしたら、およそ似たような感想を述べるのではなかろうか、というのが偽らざる印象です。

この違和感をギャグにしておりますのが古典的名作でありますパタリロ。左のリンクは現物が鑑賞できますので、最初からいくつか見ていただけばパタリロをご存じない方にもご理解いただけるのではないかと思います。

もちろんこの違和感、本格派少女マンガのファンの方には少々むかつく話なのでしょうが、カタギといいますか、世間一般のごく普通の人間から見れば、少々普通ではない印象を受けるのはやむをえない話であると思います。

で、村上春樹作品なのですが、少女マンガ的というのはそれはそれで大いに魅力に富んだ作品であるといえるでしょう。先にご紹介いたしましたマンガの国ニッポンの著者ジャクリーヌ・ベルント氏によりますと、その魅力は次のように描写されております。

このような「モラトリアム文化」とからみあっているのが、少女マンガには必ずしも話の筋が強調されていないことである。日本人は若いときから少年マンガを通して、それ以降も劇画を通して、行動的なものになじんでいるけれども、少女マンガにはそれを忘れさせてしまう魅力がある。それは数多くの自然描写や超自然的な要素をともなった情緒ゆたかな比喩であり、流れゆく大がかりなモンタージュであり、層をなして重なる絵、ぼやけて見失われてしまいそうな絵の枠である。マンガの外形的な流れと登場人物の内面的な動きとが、風になびく髪とゆれる服のように、溶け合っているのである。なかには行動力にあふれた少女マンガもあるけれども、そこにもやはり静的な思いの場が存在するのである。その思いの場では、紙面が装飾をほどこした静止画によって組み立てられており、浮世離れした世界が演出されているのである。

これは、件の書評ともほぼ重なるでしょう。まあ、「ヤリチンヤリチン」の部分は除いて、の話なのですが、村上作品に下ねたが多いことは私がご紹介いたしました作品でも同様でして、これは著者の趣味の問題、ということではないでしょうか。

あ、そうそう。で、村上作品を普通の作品として読んでしまう人の多いことが、私には少々解せない話でして、ちゃんと読み込んでいないのか、あるいは少女マンガ的ないしヅカ的世界が日常となっている方がかなり多いということなのか、このあたりが私にはさっぱりわからないのでありました。