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禅とアート、ひょっとするとこれも誤訳かしらん、、、

先日のブログに、「チキリンさんの「研究者・勝負師・芸術家」ないし“LOGIC, MARKET, ART”なのですが、これ、少し前のブログでご紹介した「知性・感性・悟性」に対応していますね」などと付け加えたのですが、そうであるといたしますと、以前ご紹介いたしました禅とオートバイ修理技術(上)(下)のタイトルは、ひょっとすると誤訳かもしれません。

先日のブログにも書きましたように、“Zen and the Art of XXX”というタイトルの書物はXXXの部分を変えてさまざまに出版されております。ちきりん氏の紹介されております「研究者・勝負師・芸術家」の芸術家、ないしはARTの部分がパーシグの言うクオリティに相当するのであるといたしますと、ZenとArtは同じ意味であるということになります。

つまり、この表題は“[Zen] and [the Art of XXX]”と解釈すべきではなく、“[Zen and the Art] of XXX”と解釈すべきではないか、ということなのですね。この場合は、先の書物の表題の正しい日本語訳は、「オートバイ修理の禅とアート」ということになります。“the”の意味合いをどう考えるか、ちょっと難しいところなのですが、、、

禅とアート、双方同じ概念を意味いたしまして、論理でも語れないし感性に属するものでもない、カントのいう悟性の領域に属する概念でして、パーシグの言うクオリティが属する領域ということになります。で、禅とアートの違いは、東洋的には禅、西洋的にはアート、ということなのでしょう。

まあ、アート、といってこれが悟性的意味であると読者に伝わるかどうかは疑問でして、「禅と芸術」などと思われてしまいますと何のことやらさっぱりわからなくなってしまいます。かといいましても、正しい概念が伝わる適切な日本語も見当たりません。ここは、誤解を恐れずにアートで通して、アートの意味が芸術だけではないということを人々に知らしめるしかないような気もする次第です。


本日は大雪の中、いつ停電するとも知れず、仕事にかかるわけにもいきません。土曜日でもありますことから本日は休業として、多少は知的な作業に終日を費やすこととしております。

そうそう、現象学の続きも読まなければいけませんね。


2/9 追記:昨日は三回にわたる停電をものともせず、木田元氏の「現象学」を読んでおりました。で、先日のブログでは「メルロー・ポンティをはじめといたしますフランス系の思想家も前期から中期にかけての思想に重点を置いて継承」などと書いたのですが、これは訂正しておかなければいけません。

まず、木田元氏によりますと、フランスの思想家のうち、サルトルは前期フッサールの思想を(多少誤解して)継承する一方、メルロー・ポンティは後期フッサールの思想を継承した、と。

これは、私の印象とは異なるのですが、木田元氏の言われていることがおそらくは真実に近いであろう、とは思います。でも、私がメルロー・ポンティの著作を何冊か読みました限りでは、これがフッサールの後期の思想と同じようには思われないのですね。で、そのあたりに付きまして、つらつらと考えておりました次第です。

まず、私がメルロー・ポンティの思想が現象学から外れていると考えておりますその理由は、ポンティがベースとしておりますゲシュタルト心理学が、私には現象学とは無縁のベースであるように思われるからです。ゲシュタルト心理学は、今日では脳神経科学で説明されるような考え方であり、人間の脳(含む網膜?)神経の機能を客体として扱って得られる結論と同じことを語っているように私には思われるのですね。

で、間主観性を間身体性などといわれましても、それは生物としての人間を記述しているだけではないか、と私には思われるわけで、これをフッサール後期の思想といわれましてもぜんぜんぴんとこないわけです。

でも一方で、フッサールの間主観性(相互主観性)が論理的に齟齬があるということを木田元氏は書かれております。これはそうであるのかもしれません。なにぶん私は、このあたりのフッサールの論理をきちんと追いかけているわけでもありませんから。

そうなりますと、フッサールとも、当然メルロー・ポンティとも関係ない形で、形而上学を新たに提示しなくてはならないのかもしれません。まあ、おおよそのところはわかっているのですが、、、

あまり時間もありませんので、ここでは、その概要をスケッチしておくことといたしましょう。

まず、自然界(自然学の対象となる世界、物自体)と、主観と、普遍妥当性(人間社会の知的活動の作り出す世界)の、三つの世界があることを認めていただきます。

これはなかなか理解していただけないかもしれないのですが、まず、主観があることは誰でも認めるでしょう。

次に、主観の中に外的世界のイメージがあることも認めるでしょう。そのイメージは、自らの主観が作り出したものであるのか、主観の中の世界とは異なる世界から何らかの働きかけを受けて作り出したものであるのかを考えなくてはいけません。

それが異なる世界からの働きによることさえ認めていただけるのなら、その異なる世界こそが物自体の世界であるわけです。で、主観の中にあるのは、その世界の不完全なコピー、イメージであるわけです。

次に、同様に、人間社会の作り出す世界を考えます。これは、常識定説の世界であり、社会自体がもつ知的働きが作り出した世界です。で、人はその世界を正確に知ることはできないのですが、社会とのインタラクションの結果、自らの主観の中に、普遍妥当の世界の不完全なコピーを持っております。

更に、私がこのようなことを記述しているのは、実は人間社会という世界の中における行為なのですが、私が行っているのは、私の主観の中の不完全な人間社会のイメージなりコピーなりの中で、このような行為を行っている、と。

もちろんこんなことを私が書いたからといって、これが人間社会の常識になるわけでないことぐらい、重々承知しておりますとも。人間社会というある種の知性体は、きわめて複雑な階層構造をもっております。でも、個人の主観にしたところで、非常に複雑な構造の元に情報処理を行っていることに他ならないのですね。

で、これら三つの世界は、それぞれ異なる情報処理システムとして把握されるべきであり、それぞれに異なる論理で動いております。人がこの世界を把握し、記述する際には、いずれの論理世界の議論であるのかを認識して行わなければいけませんし、それぞれに異なる態度が必要であるように思われる次第です。

で、現象学は、主観世界を追求する学であるとフッサールが規定したにもかかわらず、メルロー・ポンティは物自体の世界、ないし客体的世界に思いを馳せているように、私には思われた次第です。


2/25追記:“Zen and the Art of Motorcycle Maintenance”の日本語訳ですが、上で書きました「オートバイ修理の禅とアート」では確かに意味が分かりにくいように思います。ここは、“the art”に「勘所」という意味もありますことから、「オートバイ修理の禅と勘所」とするのがよいのではなかろうか、との結論に至りました。勘所の「勘」には、理性を超えた直観的な意味合いもありますので、この書題の意味には最も近いのではないでしょうか。

“Zen and the Art”という言葉の面白さが東洋と西洋の並置にあるといたしますと、「勘所」ではこの面白さは半減してしまうのですが、これはまあ、翻訳の限界といったところではないかとも思います。この路線できることは「勘所」に「アート」と振り仮名をつけることくらい。まあこの辺でご勘弁いただきたいところです。