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木田元著「ハイデガー『存在と時間』の構築」の指摘する誤訳

木田元氏のハイデガー『存在と時間』の構築をしつこく読んでおりましたら、最近このブログでよく取り上げております誤訳がらみの一文がありましたので、ご紹介しておきましょう。

ここでは、ハイデガーもカントも用いております用語“Realität”の意味について論じております。この言葉は一般的には「現実性」と解釈され、「実在」と同義に解釈されるのですが、カントの使用しております(カント以前とは異なる)意味は定義なり属性なりといった意味で、コンピュータプログラムでのマクロやクラスの定義に相当いたします。これらは定義をあたえるものであり、定義されたからといってメモリーの中に実体が形成されるわけではないのですね。

このような変化が生じたのは、カント(デカルト?)の以前と以後で主観と客観の意味が逆転したからである、とハイデガーは指摘いたします。

これは、先ほどもふれたように、デカルトからカントにいたる間に、<Objekt(オプイエクト)>という言葉、それと同時に<Subjekt(ズプイエクト)>という言葉の意味が変わったからである。<subiectum(スブイエクトゥム)>というラテン語は、アリストテレスの用語<ヒポケイメノン(基体)>の訳語として造られ、中世から近世初頭までもっぱらその意味で使われていた。<基体>というのは、それ自体で自存している存在者のことであり、近代的な意味でならどちらかといえば客観的な存在者に近い。<obiectum(オブイエクトゥム)>もアリストテレスの用語<アンチケイメノン>の訳語として作られ、スコラの時代には、心に投射(オブイエクテレ)された事物の姿、つまり観念のようなものを意味していた。アリストテレスにおける<ヒポケイメノン>と<アンチケイメノン>、スコラにおける<subjectum(スブイエクトゥム)>と<objectum(オブイエクトゥム)>は別に対を成していたわけではないのだが、それが18世紀、カントの時代に、意味を逆転した上で対にされ、<Subjekt(ズプイエクト)>が<主観>、<Objekt(オプイエクト)>が<客観>を意味するようになった。……

いずれにせよ、<objektiv(オプイエクティーフ)>という形容詞の意味が変様したため、ほとんど同じ形に見えるデカルトの<realitas obiectiva(レアリタス・オブイエクティーヴァ)>とカントの<objektive Realität(オプイエクティーヴェ・レアリテート)>の意味がまるで逆になってしまったことを、ハイデガーは指摘してみせる。デカルトのばあいもカントのばあいも、現代の邦訳では、これらの言葉があっさり「客観的実在性」と訳されているのだから、なにがなんだか分からなくなっても当然である。デカルトの『省察』やカントの『純粋理性批判』といったもっとも基本的な哲学書の中心部に、こんな初歩的な無知が残っているのだから、日本の哲学研究の水準も知れたものである。

ヒポケイメノン(ヒュポケイメノン)を木田元氏は哲学者らしく「基体」と訳されていますが、英語でいえばsubstance(実体、実質)でして、普通の言葉で語っていただいた方が分かりやすいような気もいたします。substanceとsubject(主観)、確かに似た言葉ではあります。一方の「アンチケイメノン」ですが、これは正しい言葉なのでしょうか? ネットを検索いたしましても、木田元氏の用例のみが引っかかります。この用語に関しては宿題、ということにしておきましょう。

(2018.5.4追記:それはさておき、ここで木田元氏が指摘する重要な問題は、デカルト以前のオプイエクト(オブジェクト)は心に投射された外界の姿を意味し、外界にある実在は、実体・実質の意味で、ズプイエクト(サブジェクト)と呼んでいたという点です。カント以後は対応関係が逆転しますので、デカルト以前のこれらの言葉を今日と同じ形に、ズプイエクト=主観・オプイエクト=客観と翻訳したのでは、意味を取り違えてしまいます。)

カント以前には、人はもの自体、すなわち客観を知ることができると考えられておりました。これは、今日一般の科学哲学がベースとしております「素朴な自然主義」でして、人が知りえたもの自体のありようは他者も同じように知りえるとの確信がありました。このような考え方は、今日でも多くの人が持ち続けているでしょう。

しかしながら、人が知りえるもの自体の姿は、人が認識した結果であって、もの自体そのものではない、これがカントの慧眼です。これは、人の脳を情報システムとみなせば容易に理解できることで、もの自体が保持している情報が、人の感覚器官を通して脳に取り込まれ、そこに外界の姿が再構成されておりますことは否定すべくもありません。これはまた、今日の脳科学の教えるところでもあります。

情報システムという観点から、もの自体と人の精神機能を異なる情報システムであると考えるのが第一歩です。もの自体のもつ情報がカントの第一の意味(もの自体という意味)での客観で、第一の情報システムに相当し、人の精神機能に取り込まれた結果(カントのいう表象)が主観世界に属し、第二の情報システムであります人の脳によって扱われております。これらは互いに異なる情報システムであり、知覚と行動によって相互に影響を与えております。

一方、プロレゴーメナにおきましてカントは、普遍妥当性を有する認識結果は客観的性質を持つと述べます。ここにおきまして、カントの客観概念は二つに分裂しております。この普遍妥当性によって獲得された客観とは、フッサールのいう相互主観性の上に再定義された客観に他なりません。普遍妥当性とは、多くの人々が真であると認めることによって成り立っております。つまり、人間社会という第三の情報システムがこの意味での客観を形成しております。

これまでもさんざん述べてきたことですので、詳細は省略いたしますが、この三つの世界を分けて考え、主観世界の中に他の二つの世界の不完全なコピーないしモデルがあると考えますと、全ては、これら三つの世界間の相互作用としてきれいに説明がつくと、私は考えております。