本日は、内容がぶっ飛んでおりますトンデモ本ではありますが、参考になる内容を含んでおります金容雲著「『日本=百済』説」を読むことといたしましょう。
まず最初に、この本のむちゃくちゃなところは、日本の文化は(中国やインドではなく)韓半島(と著者が称しておりますところからもこの書物の主張は明白なのですが)から伝わったのである、としております。もちろんこれは全くの嘘ではないのですが、朝鮮半島は文化伝達の経由地であって、我が国に伝来いたしました文化の生まれた地ではないのですね。怪しげな消火器売りが「消防署のほうから来ました」と言っているのと似たようなもので、もちろんこれは消防署員ではなく、消防署の前を通ってきたというだけの話であるのと似たようなものです。
おかしな記述の具体例は、p197の記述にもみることができます。
戦前の教育は「日本にははじめから日本人の先祖がいて、日本語も日本人ならではの特殊な言語だ」という内容でした。とくに、日本文化は日本人が主体的に中国やインドから受け入れたもので、韓半島からは人種的にも文化的にも影響を受けなかったといいます。
このブログでは、以前小熊英二著「単一民族神話の起源」を読んでまいりました(その1、その2)が、戦前の大東亜共栄圏の思想は日本人の混血性をその根拠としておりました。一例として、同書242ページの記述を以下に示しておきます。
一九四一年六月には、総督府公認の『内鮮一体ノ理念及其ノ具現方策要領』が発行される。そこでは、歴史上、「多数ノ朝鮮人ガ日本ニ渡来シ」同化したことが強調された。そして、「西洋ノ社会構成ハ概ネ民族ヲ以テ其本位ト為ス」ために民族自決運動と国家分裂が起こりがちだが、東洋には「民族協和思想」があり、日本では天皇家のもとに「渾一ノ日本民族ヲ形成」してきたという。
いずれが信ずるに足る記述であるかは自明でしょう。小熊氏は出典を明示してその内容を引用しているのですから、これほど確かなものはありません。一方の金容雲氏は、近年の我が国の右寄りの人の一部にある日本人単一民族説を戦前の思想と誤解しているだけのように思われます。人種的にも文化的にも同じだから併合する、これが戦前の日韓併合正当化の根拠だったのですね。金容雲氏の主張は、韓国にとりましては危険思想であるようにも思われます。
歴史的な記述にも、少々おかしなところがあります。たとえば崇神王を日本に渡った騎馬民族であるとしているのですが、日本での乗馬の風習は5世紀以降であることが発掘された遺物からわかっております。また、かつて騎馬民族征服王朝説が我が国でも主張されたこともあるのですが、我が国の習俗が騎馬民族のそれとは相当に異なることから、今日ではこの説は否定的にとらえられております。
とはいえ、同書には参考となる記述もあります。歴史的に朝鮮半島は、半島独自の文化をはぐくんだ地であるというよりは、様々な勢力が衝突した地と考えるのが妥当でしょう。すなわち、北から北方民族が進入する一方で、西から漢民族が勢力を伸ばし、南には倭人が勢力範囲を拡大しておりました。ここまでは、大方の一致する見方でしょうし、さすがの同書もここまでは否定しておりません。
同書によりますと北方民族も一つではありません。すなわち、扶余族の一部が半島に南下して「辰」を建国します。これが辰韓・馬韓を勢力圏に置き、これが伯済・百済に引き継がれたとしております。この系統は高句麗とも同根であるといたします。一方、新羅はこれらとは別系統で、辰韓に属しはしていたもののその支配勢力はスキタイ族に近い勢力であった、としております。半島の勢力も、かなり複雑な状況であったことがうかがえます。
(2017.1.23追記:一般には、半島南端の東にありました「辰韓」が新羅の元と考えられており、辰韓は倭種の人々の国と考えるのが妥当であると私は理解しているのですが、このあたりの歴史認識は韓国人のアイデンティティに関わる問題であり、読解に際しては警戒が必要です。)
さて、我が国との関係で重要と思われる記述は、同書の最初の部分(p18)にあります。以下これを引用いたします。
列島内に至る先着コース
韓半島を経て日本列島への経路は、地理的条件によって大きく三つに分けられます。
(1)韓半島の西南部地域を経て九州北西部へ入る
馬韓地域では今の、莞島(ワンド)、麗水(ヨス)付近で済州島(チェジュド)東部を通る航路を取り、九州西北部にある肥(火)の国すなわち熊本あたりを中心とする狗奴勢力になったと思えます。たとえば、九州西部の肥(熊本)には三世紀の狗奴国、四~五世紀ごろの江田船山古墳を残した百済系の分国(植民地)がありました。(2)半島南海岸を経て九州北東部へ入る
三世紀の初期、韓半島から列島に行く航路を記録した『三国志』「魏書」(以下『魏志』)「東夷伝」によると、その航路は……(以下略)(3)半島東海岸を経て日本海に面した出雲地域への道
新羅系はおもに東海岸から出発します。十三世紀の高麗の僧一念(イリョン)が著した『三国遺事』には、新羅から半島に渡り倭王になった延烏郎(ヨニョラン)と細烏女(セオニョ)の神話が記録されています。それは、巫具一切を持って夜逃げした妻の後を追い来日したといわれるアメノヒボコ(天日槍)のモデルかもしれません。また、それとは別に新羅第四代の王、脱解(タルヘ)は日本の多婆那(たばな)国から来たとされていますが、脱解は“たけ”に変化しやすいのでスサノオの子のイソタケル(五十猛)を連想させます。多婆那とは現在の鳥取県から福井県あたりだろうと推測されています。日本では但馬、丹後などの地名がその近くにあります。脱解王が新羅に渡った航路をもとに推測すると、日本海を横切る「出雲―迎日湾(ヨンイルマン)」ルートとみられ、この航路は季節風や海流を利用し比較的簡単に往来が可能でした。
出雲は主として新羅系で、九州北部の中・東部は邪馬台国や狗奴などおもに伽耶・百済系が占めていました。その後も長い間日本列島内の人口分布はこのパターンに従い、九州西南部では馬韓。百済、九州の北東部では弁韓・伽耶、出雲では辰韓・新羅系が勢力圏を形成しました。
この記述は、以前のこのブログの記事を支持するもので、北九州から壱岐・対馬経由で朝鮮半島南端へと渡る伊都国や奴国の用いていたルートの他に、新羅(朝鮮半島東岸)と出雲を結ぶルートが存在していたことが同書からも裏付けられます。なお、同書は「狗奴」を熊襲と同一視しており、本ブログの「狗奴=出雲」とする考え方とは異なっております。ここで「狗奴」と書かれております集団は「熊襲」と読み替えるのがより正確といえるでしょう。
それにしても多婆那(たばな:丹波のことでしょう)から来た脱解(タルヘ:“たけ”の変化と同書はしておりますが、武(たけ)は丹波勢の名前に多く見られます)が新羅第四代の王になったというなら、韓国勢が日本を支配したというよりは、日本勢が韓国を支配していたということになりそうなものです。もちろん私はそんなことを主張するつもりはありません。当時の半島南部と日本列島は別の国であるなどという意識は当時の人々にはなかった、というだけの話であると理解しております。この時代の話をもって韓国が一番とか、日本最高、などと言ってみたところで何の意味もないのですね。同書の一貫した主張は、半島勢力が倭国を支配したとするものなのですが、これが噴飯ものであることは、前半部分に書いた通りです。
というわけで、この書物はすべてを真に受けるわけにはまいりませんし、多くの日本人にとりましては不愉快な内容を含むかもしれませんが、多少の新しい情報も含む、私にとりましては興味深い書物ではありました。