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以前のブログで、

倭人条で陳寿は邪馬台国の位置を「計其道里、當在會稽、東治之東」つまり「その道里を計るにまさに会稽東治の東にあり」としております。會稽は夏朝の禹のゆかりの地で、東夷に礼の伝わるは禹の徳政のゆえである、と陳寿はしたかったのではないでしょうか。會稽は上海の南に位置し、その東は沖縄ないし屋久島あたりに相当します。魏使はおそらくは正確な邪馬台国の位置を報告書に記述したのでしょうが、陳寿はこれを彼が理想とする位置に置くため、方位と距離に修正を加えたのではなかろうか、というのが私の考えるところです。

などと書いたのですが、陳寿が邪馬台国の位置を沖縄付近としたのは魏略に従ったのかもしれません。ここには次のような記述があります。 ... "三国志魏書東夷伝における邪馬台国の位置の問題、再論" を続けて読む