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三国志魏書東夷伝における邪馬台国の位置の問題、再論

以前のブログで、

倭人条で陳寿は邪馬台国の位置を「計其道里、當在會稽、東治之東」つまり「その道里を計るにまさに会稽東治の東にあり」としております。會稽は夏朝の禹のゆかりの地で、東夷に礼の伝わるは禹の徳政のゆえである、と陳寿はしたかったのではないでしょうか。會稽は上海の南に位置し、その東は沖縄ないし屋久島あたりに相当します。魏使はおそらくは正確な邪馬台国の位置を報告書に記述したのでしょうが、陳寿はこれを彼が理想とする位置に置くため、方位と距離に修正を加えたのではなかろうか、というのが私の考えるところです。

などと書いたのですが、陳寿が邪馬台国の位置を沖縄付近としたのは魏略に従ったのかもしれません。ここには次のような記述があります。

自帯方至女國万二千余里
其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後
昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也

つまり、倭人は自らを太伯の子孫であると称していると。太伯は呉を建国した人の祖で、上海付近の人ですから、その子孫であると称するからには上海の近くに倭国があると考えられたのも無理はありません。

なお、「昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害」という記述と類似した逸話として、東[魚是](とうてい)人に関する逸話で、夏后が東[魚是]人に入れ墨をすることでウミヘビの害を防ぐことを教えたところ、東[魚是]人はこれに感謝して魚を貢ぐようになりました、という話も伝わっております。倭人と東[魚是]人との混同があったのかもしれません。

何が最も基本的な部分にあったのかはよくわかりません。東夷に礼のあるは中華の影響であるとしたい心境が基本にあるのかもしれませんし、太伯の子孫であるというからには呉に近い上海付近にあると考えたのかもしれませんし、東[魚是]人と倭人にともに刺青の風習があったことがこの混乱の原因であったのかもしれません。いずれにいたしましても、陳寿の認識した(あるいはあえて認識とは異なる形で書き表した)倭国の位置は、現実の位置とは大きく異なる位置であったとしたこともあり得るのではないでしょうか。

前回のブログでは、意図的に異なる位置を記述したと致しましたが、三国志の先行文献である魏略のこの記述を見れば、陳寿が誤認するということもあり得ないことではないように思われた次第です。


三国志倭人条には「計其道里、當在會稽、東治之東」のすぐ後に倭国の習俗についての記述があり、最後で「所有無與憺耳朱崖同」としております。憺耳朱崖は中国の南端、ベトナムに近い海南島にあった郡の名前であり、上海からはさらに南に下っております。さすがの陳寿も、倭国がこれほどまでに南にあるように書き記すことは少々不自然であるように私には思われます。

ここで、「所有無與」の解釈に二通りあり得ることは、注意しておいてもよいでしょう。

我が国で行われております「所有無與」の一般的な解釈は、「有無するところは」と読み下して、倭国の習俗は憺耳朱崖と同じであるとするものです。一方、中国語の「所有」は、「すべて」を意味する成語としての解釈も可能です。「所有」は「あるところ(存在するもの)」ですから、論理的には「それ以外のものは存在しない」こととなり、「すべて」の意味を持つことになります。後者の解釈をするならば、この部分は「全ての倭国の習俗と憺耳朱崖の習俗は同じではない」と解釈され、我が国で行われております一般的な解釈の正反対の意味ということになります。

いずれの解釈が正しいか、ここは断言することは困難であるように私には思われます。ただ、陳寿が倭国女王の都を上海の東にあったと主張するのであれば、その習俗が海南島と同じであるなどということに言及する意味は乏しく、あえて憺耳朱崖に言及するなら、その習俗は倭国のものとは異なるとするのが話の流れとして妥当であるように私には思われた次第です。

皆さんはどのように解釈されるでしょうか?