「『浜辺の歌』を駅メロに=辻堂駅の地元有志が企画」(リンク切れ)という神奈川新聞の記事がネットにも流れておりました。
「浜辺の歌」は、癒し性があるということでしょうか、東日本大震災の後によく流れておりました。ちょっと気になりまして調べてみたのですが、この歌が今に伝わる過程で、様々に数奇な出来事を経てきたことが分かりました。当時はこれをご紹介するほどの心の余裕はなく、そのままになっておりましたが、先の新聞記事で思い出しましたので記憶をたどりながらここに記しておくことといたします。(現在は、「ウェッブ『池田小百合なっとく童謡・唱歌』」なるページに詳しい解説が出ております。また、歌のリンクのキャプションは二十四の瞳 高峰秀子となっていますけど、高峰秀子は大石先生役で、歌っているのは石井シサ子さんです)
最初は3番まであった
まず、この歌詞ですが、今日は一般に次の1番と2番が唄われておりますが、最初に「はまべ」と題して発表された際には3番まであったということ。東京音楽学校の学友会誌『音楽』の1913年8月号に「作曲用試作」として最初に掲載されたものは、次の三連の歌詞でした。
(1)
あした はまべを さまよへば、
むかしの ことぞ しのばるる。
かぜの おとよ、くもの さまよ。
よするなみも かひの いろも。(2)
ゆうべ はまべを もとおれば、
むかしの ひとぞ しのばるる。
よする なみよ、 かへす なみよ。
つきのいろも ほしの かげも。(3)
はやち たちまち なみを ふき、
赤裳の すそぞ ぬれもひぢし。
やみし われは すでに いえて、
はまべの 真砂(マナゴ) まなご いまは。
失われた4番
さらに驚くべきことは、林古渓は4番まで作詞していたということ、そして出版の際に編集者が勝手に3番と4番を合わせて3番としてしまった、ということです。このいきさつは、前記リンクによりますと次の通りです。
原作の「はまべ」は全四連、ありました。
京北中学校(現・京北学園京北高等学校)の国漢科の教員をしていた古渓が、同時期に学んでいた東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽部)の学友会誌『音楽』に寄稿しました。
出版の際に作者に無断で三連の前半に四連の後半をつけた改作された三連が載せられました。
林古渓の息子の林大(はやしおおき 国語学者 前・第三代国立国語研究所長)によると、「三番と四番の歌詞を混ぜた犯人は、××先生らしいのですが、自分ではお気づきになっていないのです、アハハ」(鮎川哲也著『唱歌のふるさと 旅愁』音楽之友社より)。この「××先生」は、学友会誌『音楽』の主宰者であった牛山充(みつる)と推測できます。
・・・詩は、古渓が牛山の依頼で創ったかどうかわかりません。依頼した詩なら、もっと大切にしたはずです。
・・・古渓は、発行された学友会誌『音楽』をすぐに見ているはずです。
古渓は「これでは意味がとおらん」と言って原詩は早い時期に古渓の元で失われました。
後日、息子・林大が「思い出したらどうか」と言うと、「忘れちゃったよ」という返事だったそうです(鮎川哲也著『唱歌のふるさと旅愁』(音楽之友社)より。
林古渓は、のちに元の詩の復活を試みるのですが、結局失敗に終わったとのこと。かれは、この歌が3番まで歌われることを好まなかったというのですが、この経緯を考えれば当然であるともいえるでしょう。
4番復元の試み
東日本大震災の後、私がやっておりましたことは、実はこの歌の3番と4番をもとの形に戻そうという大それた試み。そして当然のごとくこの試みは失敗したのですが、上の歌詞にそのヒントはたくさんあったのですね。ほかの方々が挑戦される際のヒントとして、そのいくつかを書いておきましょう。まあ、相当に無謀な試みであるとは思いますが、、、
(2017.2.17追記:本日、元々は3本の記事であったものを一つの記事にまとめております。当初この記事は、失敗の記録というつもりで書き始めたのですが、書いている途中で徐々に完成度が上がっております。この経過を残すため、少々お見苦しい部分もありますが、修正の過程をなるべく残すようにいたしました。なお、元記事は題名を「浜辺の歌の数奇な歩み」としておりました。)
まず、1番と2番の歌詞は対になっている、ということ。「あした」に「ゆうべ」、「ことぞ」に「ひとぞ」、「かぜのおと、くものさま、よするなみ、かひのいろ」が「よするなみ、かへすなみ、つきのいろ、ほしのかげ」となっているのですね。この1番と2番は、空間と時間をきわめて広い範囲で描写しております。
ついで、3番の発表された歌詞ですが、広角から望遠へと急速にズームアップしております。1番2番に歌われておりますのは海と浜辺の広大な景色ですし、歌われている場所が江の島に近い辻堂ということで、ここでいう「昔」とはおそらくは鎌倉時代。それが、疾風が波頭を吹き大波が押し寄せますと赤裳の裾が濡れてしまう、赤裳とは昔の女性用下着で、裾をまくって海に入っていた女性が服を濡らしてしまったという色っぽい描写となります。そして、自らの病気が癒えたこと、足元の真砂、自分の子供(まなご)へと思いは飛んでいくのですね。これは全く個人的なこと、自らの身体的なことであって、1番2番で歌われておりました広大な時空間とは全く逆の世界ということになります。
で、3番と4番の分離ですが、おそらく古渓は「起承転結」の形に作詞したであろうこと、3番と4番で使われる多くの言葉は対になっていたであろう、ということが予想されるのですね。だから、「疾風たちまち波を吹き赤裳の裾ぞ濡れもひじし」まではおそらく3番の「転」であろうこと、真砂(マサゴ)と真子(まなご)が対になっていたであろうことなどがヒントとなります。
そうなりますと、3番の前半は元の通りの可能性が高く、後半は無理やり作ると致しますと「病みしわが身の血も騒ぎ、浜の真砂に足の跡」あたりでしょうか、ちょっとどぎつすぎるかもしれませんが。そして、4番の後半は、公表されている「病みし我は既に癒えて」に続いて「遠き真子の今如何に」あたりが入るのではないか、と思います。あとわからないのは4番の前半ですが、弱い風なり夕凪なりで始まり、赤裳の代わりに何らかの色のあるもの(夕日でしょうか)が出てくるということとなりそうです。あえて作れば“凪の水面に陽は入りて茜の空に鳥の舞う”などかな?
纏めて改訂版の3番4番を記すと次のようになります。
(3)
はやち たちまち なみを ふき、
赤裳の すそぞ ぬれもひぢし。
やみし わがみの ちも さわぎ、
はまべの 真砂は かぜにながる。(4)
なぎの みなもに ひは入りて、
茜の そらに とりのまう。
やみし われは すでに いえて、
遠離(オンリ)の まなごは いまいかに。
まあ、作者に勝手に歌詞を復元することが許されるものかどうかわからないという問題もあり、この話題はしまい込んでいたのですが、ちょっとした頭の体操ということでここに書きました次第。
林古渓がこの歌詞を発表したのは、作曲家の練習用の歌詞として。これに応じて成田爲三が曲を付けて応募したのですが、その時彼はこの曲を当時恋焦がれていた女性に捧げる形で応募したのですね。でも、あっさり断られてしまった、と、、、
一つの歌にもいろいろと物語があるものです。いつの日にか、辻堂駅の駅メロでこの曲を聞かれた際には、その裏にあります数奇な物語に思いを馳せるのもまた一興かと思います。
いくつかの修正履歴
一部復元歌詞を修正しました。
「病みしわが身の血も騒ぎ」は、確かに少々不穏当な文言なのですが、そういう意味では「赤裳の裾ぞ濡れもひぢし」もあまり行儀が良いとも言えません。私は、この部分はもともと不穏当な文言が書かれていたのが真実ではないか、という気もしております。つまり、そうであるが故に出版に際して手が加えられたのではなかろうか、と考えているわけです。いくら昔のこととはいえ、何の理由もなく作者に無断で詩に手を加えるなどということは、ありそうにも思えないのですね。
もちろん、真実のところは誰にもわからないのですが、、、(4/1追記)
(2017.9.14追記「病みしわが身の血も騒ぎ」は、「病みしわが身の血潮騒ぎ」の方が良いかもしれません。後者は、文字数もぴったりなのですが、あまりぴったりしすぎるのも古径らしくないような気も致します。ここは、血も騒ぎとしておくことといたします。私はこの部分にはこだわりません。皆さんは、どちらが良いと思われるでしょうか?)
4番の最終行は、「遠離の まなご いまいかに。」が良いかもしれません。1番2番で唄われました広大な時空間を受ける言葉としては、「遠離」がふさわしいようにも思います。(4/3追記)
4番の「とおき まなごの」を上のように修正しました。
改変に至る社会的背景
さて、コメントを頂きました言世と一昌の夢幻問答ですが、厳しいですね。編集者による改造説を真っ向から否定しております。
改造が起こりました理由として私は、著作権が軽視されていたからではなく、風紀紊乱を理由とする当局の圧力を嫌ったからではなかろうか、と考えております。実は、このリンク(リンク切れ)などにもありますように、戦前の我が国では出版物の検閲が日常的に行われておりました。ここで問題とされたのが、左翼思想と風紀紊乱。上に掲げました歌詞程度で風紀紊乱などといわれることもあるまいと思うのですが、何分、まじめな雑誌に少々似つかわしくない文言ですので、万一を嫌ったこともあったのではなかろうか、というのが私の考えです。
ちなみに、我が国におけます著作権侵害裁判の第一号は桃中軒雲右衛門事件。(こちらも、論文pdf)
私が雲右衛門のことを知りましたのは、大昔に出版されました「芸道一代男」、中頸城郡清川村公民館の蔵書が払い下げられて上越市高田の古本屋に並んでいたのを手に取ったのが始まりでした。
日本浪曲協会のHPに掲げられました写真によりますと(今はこっちか:本人ではありませんけど、雰囲気をどうぞ)、桃中軒雲右衛門は、キムタクばりの良い男。これが災いして不倫事件を起こし、関東にはおられないこととなります。そして、関西に下る過程の沼津の駅で差し入れられた駅弁が桃中軒の弁当。人の情けとはなんとありがたいものか、これを忘れないように以後私は桃中軒を名乗ろう、というのが最も印象に残るシーンなのですね。
もちろん、スキャンダルが知れ渡っておりますから、改名の必要もあったのでしょうし(ちなみに「雲右衛門」は当時の力士のしこ名だとか)、弁当を差し入れたご婦人は今でいえばただのミーハーだと思うのですが、この話自体が一つの浪花節でもあります。
桃中軒という弁当屋は、今でも残っており、三島駅にも売店があります。三島の駅に行くたびに、この話を思い出してこの店を振り返ったりしております。もっともこの弁当、私は未だ食べたことがない。三島でのおすすめは、沼津漁港直送のネタを出す鮨屋。昼休みには行列のできる店ですので、11:53着のこだまで狙うのが必勝法、だと思いますよ。
あ、それで、著作権侵害の問題が発生いたしますのは、関西で名を成し、再び関東へと凱旋いたしました桃中軒雲右衛門が大いに評判を呼び、その講談を録音いたしましたレコード盤を無断出版した業者が訴えられたという次第。人気がなければそんなことも起こりません。桃中軒雲右衛門、関西に流れたことが、結果的に、関西流の浪花節と関東の講談の融合を招き、一段上の芸に昇華させたという次第。何が幸いになりますか、人生万事、塞翁が馬ではあります。そして、彼の人生がまた、浪花節の世界であるともいえるのですね。桃中軒弁当の差し入れを含めまして、、、
とまれ、閑話休題です。
ところで、この歌詞がラブレターであった、という説が上のリンクにもみえるのですが、これは本当でしょうか? 曲のほうは確かに成田爲三が片思いの女性に捧げたという話が伝わっているのですが、歌詞もそうだったのでしょうか? 私には、話がごっちゃになっているようにしか思えないのですが、、、
雲右衛門が桃中軒の弁当をもらったのは三島ではなく沼津であるということで、本文を訂正いたしました(桃中軒の沿革。)「芸道一代男」では「三島」としていたような記憶もあるのですが、今となっては確認できません。(4/9追記)
古渓によるセノオ版修正の試み
二木紘三のうた物語によれば、この歌詞は東京音楽学校の学友会誌「音楽」に大正2年(1913年)に発表されたのち、大正7年(1918年)にセノオ音楽出版から楽譜が出版されております。こちらの歌詞は、学友会誌版といくつの点でか異なっているのですが、古渓自身がこの楽譜に対して修正を施した写真が残っていると。この修正は、以下のものとされております。
はやちたちまち波を吹き、
赤裳のすそ[ぞぬれもせじ。→のぬれもひぢし。]
やみし我は[すべて→すでに]いえて、
浜辺の真砂(まさご)まなごいまは。
このリンクでは、「赤裳のすそのぬれもひぢし」の「の」への修正に疑問を呈しております。これはおそらくは古渓の修正ミスではないかと思われます。(リンクでは「赤裳」の部分が「あかも赤裳」となっておりますが、これはタイポと思われます。)
一方「真砂」の読みは、学友会誌版の「マナゴ」がセノオ楽譜版では「まさご」となっているのですが、こちらは修正が入っておりません。この部分、私には学友会誌版の誤植であるように思えます。何分、「浜辺のマナゴ、まなごいまは」では、歌を聴いただけでは「マナゴ」と「まなご」が異なる意味であるとはとても思えませんので。(もちろん、私の推定が正しく、3番が真砂で、4番が真子であるならば、3番の真砂の読みをマナゴとすることも可能であり、もしかすると古渓はマナゴと読ませるように書いていたのかもしれません。再現に際しては、こちらを採用することといたしましょう。)
さて、もし4番まであるのが正しい姿であるならば、古渓がセノオ楽譜版を修正した際になぜ4番まで正しく戻さなかったのかという疑問は当然出るでしょう。しかしこの疑問からは、元々3番までしか作られていなかった、という結論は引き出せません。なにぶん、この写真の3番の後に、「四」という書き込みがあったということですから。
おそらく古渓は4番を思い出そうとしたが思い出せず、学友会誌版に修正することで良しとしたのではないでしょうか。
記事を改めましたので、学友会誌版(青、緑)と私の復元版(茶)を以下に再録しておきます。今日の正式版(題号は「浜辺の歌」)なら青字の部分、学友会誌版なら青と緑、原型推定版なら青と茶を歌うこととなります。
はまべ(1)
あした はまべを さまよへば、
むかしの ことぞ しのばるる。
かぜの おとよ、くもの さまよ。
よするなみも かひの いろも。(2)
ゆうべ はまべを もとおれば、
むかしの ひとぞ しのばるる。
よする なみよ、 かへす なみよ。
つきのいろも ほしの かげも。(3+4)
はやち たちまち なみを ふき、
赤裳の すそぞ ぬれもひぢし。
やみし われは すでに いえて、
はまべの 真砂(マナゴ) まなご いまは。(3)
はやち たちまち なみを ふき、
赤裳の すそぞ ぬれもひぢし。
やみし わがみの ちも さわぎ、
はまべの 真砂(マナゴ) かぜにながる。(4)
なぎの みなもに ひは入りて、
茜の そらに とりのまふ。
やみし われは すでに いえて、
とおき まなご いまはいかに。
最後の行は、「遠離(オンリ)のまなごは」から修正しました。この歌詞は全てやまとことばで記述されており、ここだけ漢語を使用する理由はないと思われること、カメラワークでいえば4番は標準レンズに戻ってフェードアウトしていくところですから、あまり強い言葉は避けるべきと考えたことなどにより、最初の案に戻すこととした次第です。(2015/10/23追記:元の「まなごはいまいかに」を上記のように修正いたしました。理由等につきましては9節に記述いたしました。)
修正の背景
さて、前回の記事のコメントにも書いたのですが、学友会誌に掲載された段階で4連から3連に修正された理由と考えられる背景を整理して示しておきます。
まず、最大の理由と思われる点が、当時の東京音学校が風紀問題でメディアのバッシングに晒されていたこと。このあたりの事情はこのリンク(こちらも)などに見ることができます。
発表された歌詞をみましても、「赤裳のすそ」は女性用下着の裾を意味しておりますので、多少スキャンダラスな香りがいたします。この後にさらに扇情的な言葉が連なっていたとすると、学友会誌の編集に際して、メディアを刺激することを危惧することも十分に考えられます。
また、当時の唱歌の歌詞制作に際して合議制がとられていたこと、「はまべ」の歌詞が「作曲用試作」として提出されたことなども、この歌詞を改変するに際しての心理的ハードルを下げたのではなかろうか、と推察されます。
林古渓がこの歌詞を4連で書いたという決定的な証拠は、セノオ楽譜版の欄外に古渓自身が記入した「四」という文字であると私は考えておりますが、その他にも、3連の歌詞では意味が通りにくいこと、特に最終行が奇異であること、1番から3番前半をみればこの歌詞が起承転結の形に構成されていると思われることから、結にあたる4番が存在したと考えられることなどがその理由としてあげられます。
もちろん事実はすべて闇の中であり、私の推察が正しいことを保証するものもないことは事実です。これにつきましては、各人各様に、おのれの思いを抱き続けるしかないように、私には思われる次第です。
著作権は復元を制約しないと判断する根拠
さて、3節には「作者に勝手に歌詞を復元することが許されるものかどうかわからない」などと書いたのですが、これは東日本大震災直後の私の感覚で、今日ではこの部分はあまり問題にはならないのではないか、と考えております(だからこうして公開しているのですが)。
他人の著作物を利用するに際しては著作権法の規定を守る必要があります。これは、歌詞などをネットに公開する際には特に注意しなくてはならないところです。私は、著作権法の講義をいくつか受けており、おおよそのところは理解しております。このブログを書くにあたっても、この点には注意を払っております。ここでは、「はまべ」の復元歌詞公開を問題なしと判断した理由を簡単に説明しておきます。
まず、財産権としての著作権は作者没後50年で消滅いたします。林古渓は1947年2月20日に亡くなっておられますので、すでに著作権は消滅しており、歌詞をネットで公開することは自由に行うことができます。
しかしながら、著作者人格権は「著作物を公衆に提供し、又は提示する者は、その著作物の著作者が存しなくなつた後においても、著作者が存しているとしたならばその著作者人格権の侵害となるべき行為をしてはならない。ただし、その行為の性質及び程度、社会的事情の変動その他によりその行為が当該著作者の意を害しないと認められる場合は、この限りでない」と規定されており、無期限にこれを守る必要があります。
著作者人格権で問題となりますのが、同一性保持権、つまり作品の題号も内容も勝手に改変されない権利を著作者は有しております。これを今回の場合に当てはめますと、3番として発表したものを勝手に3番と4番に分離することが、この権利を侵害したことになるか否かが問題となります。
これに対する私の考えは次の通りで、著作者人格権の侵害にはあたらないと判断しております。
(1) 今日の研究成果によれば、3番として発表された詩は林古渓の原作が勝手に改変されたものであるとする考えが主流であり、この時点ですでに同一性保持権の侵害が発生していると考えられること。
(2) 毀損された芸術作品を元の姿に復元する行為は今日広く行われており、その際に失われた部分を修復者の想像により補うことも一般的であること。
(3) 林古渓自身がこれを元に戻そうと試みた跡が認められ、元の姿に戻す行為が「当該著作者の意を害」するとは考えられないこと。
なお、今日一般に歌われております(3番を除く)二連の「浜辺の歌」は、林古渓自身が認めた作品ではありますが、学友会誌「音楽」掲載の三連の「はまべ」はこれとは別個の作品(元歌)であり、その一部が毀損したと考えられはするものの独自の価値を有しており、その復元は文化的に有意義な行為であると私は考えております。(4/10追記)(4/11一部修正)
4番再現の手順
ここで、4番再現の手順についてまとめておきます。
まず、学友会誌「音楽」に発表されました「三番」は、前半がオリジナルの3番で、後半がオリジナルの4番であるといわれております。ただし、後半最後の行「はまべの 真砂(マナゴ) まなご いまは」は、そのままでは意味が通らず、「真砂(マナゴ)」と「まなご」が対になる形で3番と4番に分かれていたはずですので、これらを分離して本来の姿を再現いたしますと、次のようになります。
(3)
はやち たちまち なみを ふき、
赤裳の すそぞ ぬれもひぢし。
XXX XXX XXX XXX、
はまべの 真砂(マナゴ) XXX XXX。(4)
XXX XXXX XXX XXX。
XXX XXX XXXXX。
やみし われは すでに いえて、
XXX まなご いまは XXX。
「まなご いまは」は最後の行にふさわしい文言と思われ、「はまべの真砂(マナゴ)」が3番に置かれたであろうことは容易に推察できます。「いまは」は、あまりにも省略が過ぎているように思われますが、これは、「はまべの真砂」に付けるがための省略であると考えられ、これを分離するなら「まなごは いまいかに」などの文言を置くことができます。
最後の行の最初の部分は、まなご(真子:自分の子供)が遠く離れた地にあって長く会えないことを形容する語が置かれたものと思われます。ここに「遠離(オンリ)の」という語を当ててはどうかとも考えたのですが、この歌詞はすべてやまとことばで構成されているため、ここでは「とおき まなごは いまいかに」と推定いたしました。
2015/10/23追記:この部分、「とおき まなご いまは いかに」に修正いたします。この理由は、(1) 学友会誌版の文言をより生かす形となること、(2) 4行目の各小節の文字数が1、2番とも3 3 3 3となっていることからこれに合わせたこと、(3) 「まなご」を強調するより「いま」を強調するほうがより適切と思われることなどによります。これに合わせて本稿の以前の歌詞も修正いたしました。
3番の最後の行は、「はまべの 真砂(マナゴ)」の部分はほぼ確定と思われます。「真砂」の読みを「マナゴ」とする理由は、学友会誌版にその読みが指定されていること、真子(まなご)と対にするには真砂を「マナゴ」と読ませるほうが徹底していることによります。真砂は「マサゴ」と読むのが一般的ですが、「マナゴ」という読みも日本語として間違った読みではありません。
3番は、1番2番の「静」に対して「動」がテーマとなるであろうことが、その最初の行の「はやち たちまち なみを ふき」から推察されます。ここは、風景における「動」とともに、心が乱れるさまが描写されているようにも思われます。そういたしますと、3番の最後の行も、はまべの真砂の何らかの動きが描写されている可能性が高いのですが、砂の動きとして私に思い付くのは風に吹かれて動くさまくらいしかありません。そこでここは、「かぜに ながる」といたしました。
その前の行は、これは難しいところです。ここでヒントとなりますことは、1番2番に現れる言葉の多くが対となっておりますことから、3番4番も対になる言葉が多く現れるであろうことで、この部分は4番の「やみし われは すでに いえて」に対応する言葉が書かれているはずです。また、3番は「動」がテーマであるとすれば、ここは心の乱れるさまが表現されてしかるべきところです。そこで、前の行の「赤裳のすそ」を受けて「やみし わがみの ちも さわぎ」といたしました。この言葉は少々不穏当な言葉ではあるのですが、であるがゆえに学友会誌編纂にあたって修正を受けたと考えることもできます。
最後の大問題は4番の前半です。4番は、「起承転結」の「結」にあたり、3番の動きを再び鎮めて余韻を残しつつ静に至る形となっているはずです。4番後半を「やみし われも すでに いえて/とおき まなごは いまいかに」としておりますので、前半に置かれるべきは動から静に移りゆく光景の描写ではなかろうかと思われます。
また、3番4番を構成する言葉のいくつかは対となっているであろうことを考えますと、「はやち(疾風)」に対応する弱い風なり風のないさま(凪)で始まること、赤裳に対応する色のあるものが2行目に現れるであろうことが予想されます。
動から静への移行を象徴するのはたそがれ時の光景であり、海岸地帯には夕凪という現象も起こります。これに着目してこれらを詩的にまとめれば「なぎの みなもに ひはいりて 茜の」あたりではなかろうか、ということとなりました。「茜」を漢字表記といたしましたのは、「赤裳」に対応させたものです。
4番2行目の最後に何が来るかは、難しいところでして、「茜のくものながれゆく」などでもよいかもしれません。ここで「茜のそらにとりのまふ」といたしましたのは、単純に感覚の問題。特に理由があるわけではありません。雲は前にも現れており、同じものを何度も登場させるのは芸がない、という美意識はあるのですが、、、
いずれにいたしましても、4番の前半は再現の手掛かりに乏しいところであり、ここに掲げました言葉以外にも、この部分によりふさわしい文言のある可能性は否定できないところです。
というわけで、これらをまとめまして、再現された3番と4番を以下に示しておきます。
(3)
はやち たちまち なみを ふき、
赤裳の すそぞ ぬれもひぢし。
やみし わがみの ちも さわぎ、
はまべの 真砂(マナゴ) かぜにながる。(4)
なぎの みなもに ひは入りて、
茜の そらに とりのまふ。
やみし われは すでに いえて、
とおき まなご いまはいかに。
2016.3.11追記:3番の「真砂(まなご)は」から「は」を削除しました。これは、前にいたしました4番の「は」の移動にあわせてのものです。4番を移動した以上、対応関係にあります3番も修正が必要です。
はまべの歌詞の構造
さて、はまべの歌詞につきまして、いくつか考察を加えておきましょう。
まずこの詩は、林古渓が「作曲用試作」として提出したものであり、おそらくは、古渓の思いのたけを吐き出したものではなく、理知的、技巧的に作られた詩ではなかろうか、と私は推察しております。そうであれば、形式を重んじ形式に従って詩が書かれている可能性が高く、欠落部の推理もそれだけ容易であろうと考えたわけです。
この詩の1番、2番は、はまべの光景を述べたものであり、寄せては返す波の描写はあるものの、全体に動きの少ない、静かな世界が詠まれております。また、あした、ゆうべという今日ただいまの時間指定とともに、むかしの人やことをしのんでおり、空間的にも時間的にも広がりを持った形で1番、2番は作られております。
一方、今日あまり歌われることのない3番は、「はやちたちまちなみをふき、赤裳のすそぞぬれもひぢし」という緊迫感のある情景が提示されます。これからただちに推察されますことは、第一に、この詩が起承転結の形式で作られていること、動きの少ない光景描写である1番2番(起と承)に対して、3番はこれと対照的な「動」であることが読み取れます。
また、疾風に吹かれる波は、海面全体で起こるというよりは、いずれかの特定の波頭でピンポイントに生じている現象と考えたほうがよさそうですし、高波に濡れる赤裳のすそがただ一点であることは言うまでもないことです。これはすなわち、広がりをもった1番2番の光景に対して、3番では極めて狭い領域に意識が集中しております。
さらに、再現部分には自らの心の乱れを含めておりますが、多くの作品で梢や草原が風に吹かれるさまは心の乱れの隠喩でもあり、1番2番で唄われましたのが風景という、自らに対峙する客体世界であるのに対し、3番は自分自身、すなわち主体世界へと描写の領域が推移いたします。
1番2番の広大な客体世界から、狭い領域に集中する自らの主体世界へと移動した3番の叙述に対し、「結」となります4番は、主客が混然一体となって再び広い世界に拡散してゆくさまが描かれるはずです。ここで描写されるべき第一の点は、3番で乱れた自らの心情とこれを象徴的に示しております風景を、再びあるべき位置に落ち着かせること、そして第二に、狭い領域に集中した視野を再び広い世界に拡大することが必要となります。
オリジナルのこの部分では、病が癒えたことと、わが子(まなご)へと思いが広がることが描かれております。また、再現部分が正しいと致しますと、疾風に吹かれる波が夕凪に落ち着くことで再び静寂な世界が描写されますし、夕刻の空に舞う鳥はまもなく帰巣することとなりますので、これも落ち着くべき場所に落ち着く隠喩表現ということができるでしょう。
ゆれるこころ
少々我田引水的ではありますが、このように考えますと、林古渓の原詩は壮大な構想の下に作られていたことがうかがわれます。しかしながら、今日歌われております1番2番だけでは、はまべの光景描写のみで、少々物足りない歌詞になってしまっております。これでは、この詩につきました曲のすばらしさに比べて、詩が大いに負けているというしかありません。
セノオ音楽出版の楽譜を見たときの古渓の気持ちも、おそらくはそういうところにあったのではなかろうか、と私は邪推しております。その時彼は、果たして、原詩を本当に忘れてしまったのでしょうか。もしかすると「四」と彼が記した時、彼の脳裏には原詩がまざまざと浮かび上がっていたのかもしれません。しかし、その原詩を以てしてもなお、この曲のすばらしさには勝てないと悟った、だから彼はセノオ版楽譜の欄外に「四」とのみ記入した、もしかするとそんなことが起こっていたのかもしれません。
もちろんすべてのことは闇の中、今日では何一つ確かなことは言えないのですが、こういったことをいろいろと考えてみるのも面白いことではないかと思います。
今回この一連の記事を書きましたきっかけは、辻堂駅の駅メロを「浜辺の歌」にという運動の記事を最近目にしたことで、東日本大震災の直後に取り組みました4番復活の試みを思い出したことが始まりでした。かつての失敗の経緯を記録しておこうという思いでこれを書き始めたのですが、書いてみれば結構いい線にまとまってしまいました。
これを書きながら思うことは、この4年間の時のながれと、4年前の震災直後のこと。あの震災の傷跡が早くいえることを願わずにはおられません。その思いを込めて、これら一連の記事を書かせていただきました。
それにしても、倍賞千恵子版の浜辺の歌(リンク切れ)は、少々まずいのではないでしょうか。なにぶん、三番まで歌われております。この三番、はたして著作者が発表を許諾したものなのでしょうか?
2018.3.13追記:昨日東海道線を利用したのですが、辻堂駅で聞こえてきました「浜辺の歌」。
このエントリーの最初に書きました「辻堂駅の地元有志」の運動が実を結んだ、ということでしょう。
ちょっとだけ感動しました。
あは、これ3年前からそうなっていたのですね。
遅くはなりましたが、まずは、おめでとうございます。
全然関係ありませんけどこちらのページでこのエントリーに触れておられます。ちょっとうれしいです。