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やりたいことが分からない、などと言うことがあり得るのでしょうか?

イケハヤ師のブログは定期的に読んでいるのですが、このエントリーには首をかしげます。

大学在学中の人が、やりたい仕事が何かわからない、というのはわかるのですよ。そもそも、仕事というものがどういうものかわからない時点で、なにをやりたいかなど、そうそう簡単にわかるわけもない。

もちろん、憧れというのはあっても不思議はないのですが、いざ現実に、就職をどうするか、となりますと、さて何をするのが良いかなど、そうそう簡単にはわからないということはよくわかる。

でも、「退職したけど、やりたいことがないから、図書館でだらだらしている」人って、要は、だらだらしたいってことじゃないでしょうか。

三か国語を話せる人にしたところで、大学出てから定年まで、激務激務の人生を送っておれば、少しはのんびりしたいと考えることはよくわかる。「何もしないこと」が、つまりはやりたいことなのではないかと思うのですね。

このブログの古くからの読者であればご存知かと思いますが、私の一番幸せな時間は、暑い夏、プールサイドでデッキチェアに寝そべって本を読むこと。はたから見れば、さぼっているだけで、何ら生産的な活動であるようには見えないでしょう。

もちろん、本を読んで多少賢くなるし、疑問に思っていたことにも解が見つかったりする。これをブログに書いたりもしているのですが、でも実は、そんなことが目的ではないのですね。ごろごろしていること自体が最大の目的であったりいたします。この気持ちよさを知らない人は、人生を無駄に過ごしているとすら思えるのですね。

イケハヤ師が引用しているちきりんさんの主張もよくわからない。「やりたくないこと」と「やりたいこと」って、実は同じコインの裏表なのではないでしょうか。暑い思いをしたくない、というのは涼しいところにいたい、という意味だし、きつい仕事をしたくないというのは楽な仕事をしたい、あるいは何もせずごろごろしていたい、という意味だと思うのですね。

逃げ出すことだけを考えていたら、逃げることすらできない。どこに逃げるかということをまず考えなくてはいけません。その逃げる先こそ、まさに「やりたいこと」であるはずなのですね。

とはいえ、何もしないことが正にやりたいことであるとしても、そんな生活は長続きしないような気も致します。定年退職をされて図書館でぶらぶらしている方も、何もしないでいることの先に何かをしたくなった時のために、なにをするのが良いか、多少は考えておいた方が良いような気がするイケハヤ師のエントリーではありました。