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デイヴィッド・イーグルマン「あなたの知らない脳」について

あなたの知らない脳」を紹介するBLOGOS記事にコメントを付けたのですが、文字数の制限でわかりにくくなってしまいました。こちらで解説をしておきます。

紹介されている書物の問題と思われる記述は以下の部分です。

そこで著者は、本書の前半で見てきた脳に関する新たな理解――自由意志はたとえ存在するにしても、巨大な自動化されたメカニズムのうえに乗っている小さな因子にすぎない――という理解から、犯罪の有責性を問うことは意味がない、と訴える。

これは凄い主張ですね。

確かに、人間の脳は物理的存在であって、そこに霊魂の働きのような超自然的現象は認められません。人の精神的機能は、自然科学という目でみれば、物理法則に従って生じる自然現象なのですね。

もちろん、人の脳は極めて精巧な構造をしており、技術的にこれと同等のものを作り出すことは現時点では困難です。だから、人にはそれなりに高い価値を認めることは、自然科学の見地からも妥当な考え方でしょう。

しかしながら、この科学的見方を押し通して、それが社会・経済にとって利益があるように人を扱えばよいとの結論に至りますと、これは一見正しそうに見えるのですが、優性思想にも通じる、危険な考え方です。つまり、社会に役立たない人間は抹消してしまえばよい、などという考え方にもなってしまうのですね。

一方で、その自然科学は何かといえば、人が考えたことであり、自らが認識している自然科学とは、自らの脳の内部に再構成されたものである、ということも事実です。それどころか、自らが認識しているこの世界のあらゆるものは、眼前の実在物にしたところで、自らの知覚のこちら側を人は捉えており、外部の世界はかくあると、人の脳がその内部に再構成したモデルをこの世界そのものとして、人は認識しております。

この問題を突き詰めれば、全ては自分自身が考えていることである、私にとっての世界は私に認識された世界である、ということもできます。つまり、主観こそすべて、ということですね。

これは梵我一如(宇宙=私)の世界であり、独我論の世界なのですが、ヴィトゲンシュタインも認めるように、一つの論理的帰結ではあります。外的事物にせよ、客観的な事実にせよ、全ては自分がそう考えているに過ぎず、その認識が絶対的な真実であると信じているにせよ、その人の脳がそう信じているだけの話なのですね。

独我論は、論理的帰結ではあります。でも、これでは、コミュニケーションにも意味はなく学問も成り立たない。そして人は、そのような世界に自らが住んでいるとは考えておりません。

自らの外部に物理的世界があること、これは、推論の結果であるにせよ、人はそのように認識しております。さらに、世界には自分と似たような他者がいる、そして、自らが認識している事実や知識の多くは、他人から得ているということも認識しているのですね。

自分以外にも、自分と似たようなことを考えている多数の人が存在すること、これは自らの推論の結果自らの脳内に構成されたモデルであるにせよ、人はそのような外的事実があるものと認識して行動している、そう考えるのが妥当でしょう。

物理的世界を支配する法則は物理法則なのですが、物理法則で記述すれば人もまた自然現象の一つに過ぎず、脳内の様々なインパルスの存在は認められるものの、全ては物理法則にしたがう自然現象であって、自由もなければ責任もない。

一方で人は自らが自由な精神を持つと認識しており、社会はおのれと似たような多数の人で構成されていることも認識している。これは物理法則から導き出された結論とは矛盾するのだけれど、社会関係を円滑に保つためには、自然科学とは異なる論理で人間関係を築かなくてはいけない、ということなのですね。

なんとなれば、人は物理法則が正しいであろうことを認めると同時に、自らが自由意志を持つ主体であると認識しており、それが物理法則に従って動いている存在であるとは考えていない。そして他人もまた同じように考えているであろうと推論しており、この推論は人生を生きる過程で他者とのコミュニケートを繰り返すことで強化され、それが真実であるとの確信をもつに至っておりますから。

つまりは、社会を律する論理は、自然科学的な知識とは別に考えなくてはいけない、ということです。

自然科学とは別の知識とは、たぶん社会学というものなのでしょう。BLOGOSの記事に紹介されている限りでは、同書は社会学の視点を欠いている様子で、自然科学的知見のみでは、BLOGOSエントリーの表題にあります「脳に操られる『自分』が起こす犯罪は、誰の責任なのか?」という点まで議論するのは少々無理があるように、私には思われました。