これまでこのブログでは、人間精神が持つ三種類の知性(理性、悟性、感性)について論じる一方、世界には三種類あること(物自体の世界、個々の人が認識する世界、人間社会の共通認識としての世界)について述べてきましたが、これらの間の関係についても、ちょっと見ておきましょう。
理性の他に悟性のトレーニングも必要ということ
こんなことを考えたのは、先日書きました「養老孟司著「バカのものさし」を読む」で触れたことなのですが、養老氏は、規則を言葉で聞く以前に、脳は学習により知っていると次のように書くのですね。
脳がやるのは、くり返しやってもいつも変わらない、ということの規則を、いつの間にか学習しているということなんです。
これは、三つの知性に割り当てれば、人は自然の中で様々なことを行う中で、さまざまな規則を自然に学習する、これが悟性の働きです。そして、規則を教わる、これは、言葉を用いて、数値・数式や論理で教わるわけで、こちらは理性の働きということになります。
ここで大事なことは、悟性の働きが先行していて、次いで理性が働く、つまりは、自らの力で自然をある程度理解している状態で、言語化された法則なり論理なりで、これを普遍的な知識として学ぶことが大事なのですね。
試験で良い点を取るには、実は、悟性の働きを先行させる必要はない。規則を丸暗記しても、試験の答えは正しく書ける。
こういうやり方をすれば、成績優秀にもなれようし、難関校の受験にも成功することだってあり得るのですが、いざ、自分で考える必要が生じたとき、正解のない問題に直面した時に困ってしまう。普通に考えればわかりそうな問題も、あらかじめ規則を与えられていなければ解けないという問題が生じてしまいます。
最近の国会で、官僚の言葉に、「バカか」という反応が生じてしまったのですが、これもこういう問題かもしれません。
この手のバカ、研究開発の分野でも少々困る研究者になってしまうのですね。こういう人たちは、学会などで話題になっている問題に挑戦するときはうまくやる。多くの論文を読めば、方法論はおよそ明らかになっており、まだ誰も試みていない組合せが残っていることも把握できる。だからその部分を研究すれば、何らかの成果も得られるし、学会発表もスムーズにできるのですね。
でも、大きな成果は上げにくい。すでに多くの研究者が取り組んでいる分野で、大きな成功を収めることは非常に難しい。大きな成果は、誰もやっていない分野なりアプローチなりで攻めなくちゃいけない。
まあ、そっちはそっちで(別の意味で)、バカか、と思われてしまうかもしれませんが、、、
三つの世界と知性の関わり
さて、「客観」を考えるために、情報処理の主体がそれぞれに異なる三つの世界があることを以前ご紹介いたしました。これを簡単に述べれば次のようになります。
世界R:人とかかわりなくそれ自体として存在する世界(自然界)で、一般的な意味での「客観」に相当します。物自体が情報を保持し、それ自体の法則性により、情報の変形を行っております。この世界を“Real World”または“Raw World”(生の世界)という意味で世界Rと呼ぶことにします。
世界C:人が認識した世界で、「主観」がこれに相当します。個人の脳の働きにより、情報の保持、修正がおこなわれております。この世界を“Cognitive World”または“Cooked World”(調理された世界)の意味で世界Cと呼ぶことにします。
世界S:人の集団ないし社会が認識した世界で、今日の哲学者が「客観」を代替するものと考えている(フッサールによれば「相互主観」の)世界です。情報の保持と加工は人間社会の持つ様々な機能によって行われ、常識や学術的知見が蓄積されていきます。この世界を“Social World”または“Swarm World”の意味で世界Sと呼ぶこととします。
人が知ることができるのは、世界Cのみであり、世界Cの内部に、世界Rと世界Sの不完全なコピー、おのれが推論した世界R'及び世界S'がある。そして人は、世界R'とS'を世界Rと世界Sそのものと考えて行動しております。また、日々の行動の際の世界R、世界Sとの触れ合いの中で、推論された世界R'および世界S'を修正しております。
この時、世界Rとのインタラクションで使われる能力がまずは悟性であり、理性がこれを確固たる世界にまとめている、これが養老氏の指摘する自然の理解なのですが、世界Sとのインタラクションは、主に言語によってなされ、理性が使われる。それだけで生きようとすれば、丸暗記の世界であり、新しいことを始める能力を失った人になってしまいます。
もちろん、他者は同時に世界Rの存在であって、言語情報以外にも様々な情報を発しております。人は他者から、言語で表現された論理のほかに、他者の感情に関わる情報もさまざまな形で受け取っています。これらは、自然の理解と同様、悟性が活躍する部分も多々あるでしょう。
また、芸術の世界は、世界Sに含まれるのですが、論理よりは情緒であり、芸術を鑑賞する際には悟性が活躍することとなる。人は、自然以外に世界Sからも、悟性をトレーニングする機会をもっております。ただしこれが可能な芸術は、論理でこさえた作品ではなく、人の自然な感情の発露で成り立つ作品である必要がありそうです。
理性の行き詰まりであるように見える今日の社会問題
米国で理性に照らせばめちゃくちゃであるように思われるトランプ氏が大統領になったのは、ワシントンの政治家を支配するポリティカルコレクトネス(政治的正しさ)が嫌われたからである、という見方があります。
ポリティカルコレクトネスは、論理、理屈の世界なのですが、理屈以前の「俺たちの生活」なり「アメリカ人の誇り」なりをどうしてくれるのか、というのが有権者の声だった、ということでしょう。理性から感性へ、という流れが一つ、そこにはあります。英国のEU離脱も、同じ文脈で説明できるでしょう。
我が国でも、野党の支持は高齢者に多く、若年層は保守を支持する者が多いという調査結果が発表されています。社会主義、共産主義は、理性の産物であるイデオロギー(この言葉自体、イデア、つまりは理想とロジックが合体してできた言葉だと思うのですが)に支えられております。一方の保守政党の主張は、経済合理性や、国民の感性を重視しており、英米の政治的流れと同じ傾向を示しているのですね。
まあ、私に言わせれば「転向のススメ」にも書きましたように、共産主義や社会主義を支持すること自体、あまり理性的ともいえないとの感は抱いているのですが、理性の厄介なところは、己の信じてきたことが間違いであるとわかったところで、簡単には間違いを認めないという心理的傾向が人にはあるからなのですね。
この傾向、頭の良い人、というよりは、俺は頭が良いというプライドを持つ人に特に強く表れております。これが、エリート官僚の馬鹿げた行為のもとになっているのではなかろうか、と最近のニュースを見るたびに思っているわけです。
まあ、研究開発の分野でも、この手の人には、いろいろと悩まされては来たのですが、、、
もう一つには、おのれの過ちを認める、考えを修正するという働きは、理性でも不可能ではないのですが、実は悟性を支える重要な働きで、悟性はトライアンドエラー、試行錯誤により知識を獲得しております。だから、悟性の働きの弱い人には、なかなか誤りの修正が難しい、ということがあるのかもしれません。
以上、少々言葉足らずですが、一応公開しておきます。内容につきましては、この先充実させてまいりますのでよろしく。