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客観再論

MechaAG氏のブログは、イケハヤウォッチの一環として毎日チェックしているのですが、最近の記事で、「哲学ってあまり「客観」という概念を扱わないんですかね。」と悩んでおられます。本ブログでは、これまでに「客観」について何度か議論してきましたが、ここで簡単にまとめておきます。

実は、客観には二つの概念が対応しており、一つは我々を取り巻く自然界、物自体の世界で、西洋世界で「客観(オブジェクト)」といえばこれを指すのがギリシャ以来の伝統でした。(実は、「サブジェクト」と「オブジェクト」という用語がカントの時代に入れ替わっているのですが、ややこしいので、現代語に訳して議論いたします。)

ところが、江戸時代(約200年前)に、カントは「人はモノ自体を知り得ない」と指摘し、きちんとものを考える人々はこれを受け入れた。人はモノ自体(旧来の意味での客観)を知っていると考えているのですが、それはその人の主観にすぎないのですね。

で、客観の第二の意味が「主(あるじ)の見方に対するお客の見方」で、漢字を読めば一目瞭然、これが東洋的な発想と私は理解しているのですが、客観とは、第三者的、社会一般の見方、というわけです。

現象学者のフッサールは、客観を相互主観性の上に再定義した。相互主観性とは共有された主観のことで、みんなが同じように考えているなら、それが客観的である、というわけ。東洋的思想への回帰です。

みんなが同じように認識している事柄を客観として扱うことは、カントもおぼろげながら指摘しており、この客観概念が今日の哲学思想での主流ではあるのですが、カント以前のギリシャ時代から脈々と続く客観概念を持つ人々も多く、今日の人類の思想は、根底部分で混乱しております。

特に、物理学者がカント思想を受け入れないことが大問題で、量子力学相対論も、カント哲学に立脚すればよりクリアーな見方が可能になるのですが、科学哲学者ですらこのような考え方を受け入れてくれない。

学会が何をしているか考えれば、カントの言い分がもっともであることは一目瞭然なのですが。

つまり学会では、大勢の学者がそれぞれ自らの考え(主観)を述べあい議論を戦わせ、その結果を定説・共通認識(相互主観=客観)として定着していく。社会の知的活動がそこにはあるのですね。

カント流の思想を受け入れることは、今日世界を支配しております一神教との軋轢を招くことからも、なかなか難しいものがあります。一神教は神という絶対的な真実の存在を前提としており、共有された主観などという人間の側からの客観定義など受け入れられないのですね。

これは、カントがキリスト教が常識であるヨーロッパの人間であることと一見矛盾するように思われるかもしれませんが、カントはもの自体の世界を否定してはおらず、「知り得ない」としております。そして、神や死後の世界に対しても「知り得ない」としているのですね。

でも、知り得ないなら、ないも同然と考えるのは普通の考え方であり、詩人のハイネはこれを評して「フランス革命では王の首が切り落とされたが、カントは神の首を切り落とした」とその著「ドイツ古典哲学の本質」の中で述べております。

量子力学のベースがカント哲学であるなら、20世紀初頭の量子力学者とアインシュタインとの相克もなんとなく理解できるような気がします。

つまり、ハイゼンベルクはカント哲学に造詣が深く、これに基づいてコペンハーゲン解釈を唱えた。他の量子力学者では、パウリも同様な考え方をしていたと思われますが、シュレディンガーはカント哲学を全く受け入れておりません。そして、アインシュタインは、量子力学そのものに拒絶反応を示したのですね。

量子力学は、少なくともハイゼンベルクの主張を受け入れる限り、カント哲学に非常に近く、これを突き詰めれば神の実在を否定する(ないしは、人が知り得ないとする)結論を引き出してしまいます。

アインシュタインにしてみれば、仮に、神の存在を否定するのではなく、神を知り得ないとするだけであるとしても、知り得ないエーテルを存在しないとした以上は、神も存在しないとしなくちゃいけない。

これは、アインシュタインの信仰が篤ければ、受け入れがたいはずです。あのアインシュタインが最後まで量子力学を受け入れなかった理由は、案外そんなところにあったのかもしれない。

「神はサイコロを振り給わず」

この言葉は、アインシュタインにとって血を吐く思いで口にしたことばであったのかもしれません。常人以上に先を見通せる天才にとって、この科学の進歩は残酷なものであったのかもしれない。何となくそんな気が私にはいたします。