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PRESIDENT Onlineの8/22付けBLOGOS記事「『心霊写真の除霊は大切な務め』そう言って霊魂と向き合う僧侶はオカルトか 」へのコメント

PRESIDENT Onlineの8/22付けBLOGOS記事「『心霊写真の除霊は大切な務め』そう言って霊魂と向き合う僧侶はオカルトか 」にコメントしました。


霊魂の実在とは、難しいテーマなのですが、そもそも実在とは何か、という問題があるのですね。

実は、実在には少なくとも二種類ある。ギリシャ人たちが「形相」と「質料」と呼んでいた二種類なのですね。これは、ギリシャの街中に多くあった彫刻(大理石であるとともにアポロン)から得られた着想といわれています。

今日では、物理的実体である「質料」のみを実在とみなす考え方が主流だけど、実は今日でも「形相」に価値をみなす考え方もあり、知的財産などは「形相」の資産価値を認めております。

形相的実在を知財法制の世界では「無体物」とよび、物理的実在である「有体物」と別個の価値をそこに認めているのですね。

デカルトも、空間的な不可侵性をもつ「広がりとしての実在(延長:エクステンション)」と、人の精神内で知ることのできる「属性としての実在」の二種類の存在を認めていたし、プラトンに至っては、形相的実在を「イデア」と呼んで重視した。

実は、人間精神は、形相的実在であり、質料としての実在はニューラルネットワークの複雑な絡み合いにすぎない。漫画がセルロース上のインクの染みであるのと同じ話なのですね。

だから、人間精神と類似した「霊魂」がいかなるありかたであるかといえば、それは形相的、属性的、無体物的実在であることに疑いありません。

これを、物理的作用を有する超自然的な存在とみなす、西洋の多くの宗教家の考え方は、ニュートンらの成功により質料、延長、有体物的実在のみを実在とみなす、唯物論的思想に引きずられた精神的退化の表れであるように私には思われます。

形相的実在は、人間精神の内に存在します。これを違う形で追求したのが現象学であり禅であったのですが、言語的、論理的追求の仕方では到達困難で、カントの言う「悟性」を働かせなくてはならない。

これを議論するにはスペースがありません。またのお話といたします。

3 thoughts on “PRESIDENT Onlineの8/22付けBLOGOS記事「『心霊写真の除霊は大切な務め』そう言って霊魂と向き合う僧侶はオカルトか 」へのコメント

  1. mi.mino

    私の人体のとらえ方というのはかんたんでコンピュータのようなもの。
    OSという最低限生存プログラムを入れたのが小脳をはじめとした古い脳。
    そして新皮質の新しい脳がプログラム空間。
    しかし、小脳の空間はベースでありAPI(手、足、目、足、神経系に繋がるセンサとアクチュエータのAPI)であるから、新しい脳といっても自由にプログラムが欠けるわけではない。ちなみに書かれ方はディープラーニング風。
     つまりAPIに大きく変動がないため、すなわち誰でも手足目の形状は同じであるから、古代であろうと現代人であろうと書かれる同じようなものプログラムは変わらない。

  2. mi.mino

    魂を形作っているのは、脳であり、それゆえ肉体が破壊されたら魂はどこにもない。
    しかしそれぞれの生きた結果が歴史となる。
    故に生きた歴史である皇室を敬愛している。
    私の先祖も敬愛している。

  3. mi.mino

    私は霊魂の存在は信じません。ただ先祖は大事にします。
    今我々の存在の形は先祖によって形作られているからです。
    故にそれの積み重ねが歴史であり、それゆえ歴史を学ぶのがすきなのです。

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