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俯瞰:邪馬台国(その2)狗奴国

前回は「邪馬台国の人びと」をご紹介いたしましたが、今回は狗奴国について議論いたします。なおこの議論は、本ブログの昔のエントリーで行ったものをさらに進化させたものです。


狗奴国の正体

魏志倭人伝は、狗奴国について次のように書いています。

次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡

其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王

http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm

この引用部分で魏志倭人伝は、傍国30国の最後の6か国に続けて狗奴国について記しています。ここに記された傍国6か国は、下の図に長方形枠内の赤字と青字で示すように、大和から灘に至る現在の地名と、順序を含めてよく対応しております。

ここで、魏志倭人伝は、狗奴国の位置を奴国の記述に続けて「其南有狗奴国」としております。このような書き方であれば、奴国の南に狗奴国があると解釈するのがふつうであるように私には思われるのですが、多くの研究者が「邪馬台国の南に狗奴国がある」と解釈しているのは奇妙なことであるように思われます。

奴国の南に狗奴国があるのであれば、邪馬台国が畿内にあるとする場合には南を東と読み替える必要がありますので、狗奴国は奴国の東、およそ出雲の位置が狗奴国の所在ということになります。

出雲は、古代出雲王国とも呼ばれた強大な勢力を紀元前後に誇っており、その後没落したとしても、かなりの人口と武器などを保有していてもおかしくはなく、戸数7万の大国である邪馬台国を悩ますだけの力をもちえると思われます。しかしこれが、魏志倭人伝に記述されるような、国際的な問題として浮上してくるには、また別の理由があったものと思われます。これについては節を改めて議論いたしましょう。

躬臣国と狗古智卑狗

前節では「躬臣(クウシ)」を「河内」に比定しております。こうする理由は、河内(カワチ)の読みが「カワウチ」、「コウチ」と転じたことによると考えております。古くはO音をU音で発言しておりましたので、「コウチ」は「クウチ」と発音され、「躬臣(クウシ)」と表記することも不思議ではありません。

また、狗奴国の官に「狗古智卑狗(クコチヒク)」の名が見えますが、魏略逸文では狗奴国の官の名を「拘右智卑狗(クウチヒク)」としており、魏志倭人伝にあります「古」は「右」の誤記である可能性を示唆しております。

狗奴国の官が「クウチヒク」であるなら、「躬臣(クウシ)」を「河内」に比定したと同じ考え方により「河内彦」なる者が狗奴国の官を務めていたとも考えられます。河内はのちの物部氏の本拠地ですから、それ以前から物部氏の当主が「河内彦」と呼ばれていても不思議はありません。これは、吉備の当主を「吉備津彦」と呼ぶのと同じ流儀なのですね。

そして、大和と出雲は、意外と近い関係にある。奈良県桜井市には「出雲」という地名の場所があり、隣の宇陀市では古代の金属加工に利用されていた水銀の鉱石、辰砂を産出する。記紀の垂仁記に相撲のはじまりに係る逸話があるのですが、この時呼ばれた力自慢が出雲からやってくるのですが、まさか山陰の出雲からとは考えにくく、桜井市の出雲から来た可能性が高いのですね。つまり、古代より出雲という地名はこの地にあり、おそらくは出雲の人たちがそこにいた。これが水銀資源に関連した可能性も高く、河内の物部氏祖とも関係していたかもしれません。

物部氏は、崇神天皇に従っており、卑弥呼共立国連合側の人物なのですが、出雲にも深いつながりがあります。出雲から南西に10kmほど離れたところにあります石見には巨大な物部神社があり、物部氏との深いつながりを示しております。この地は石見銀山で知られた土地であり、物部氏がこの地に拠点を構えました理由の一つに、何らかの鉱物資源が当時から見出されていたのかもしれません。

物部氏が大和の地において崇神天皇と行動を共にしたことが記述に現れてまいりますのは、少なくとも卑弥呼の時代ではなく、二代目女王イチ(迹迹日百襲姫と同一人物と考えております)の時代です。従いまして、卑弥呼の時代において物部氏が出雲の官であったとしても矛盾はいたしません。金属加工に長けた物部氏のことですから、出雲においても神宝管理の役職などを得ていたとしても不思議はありません。

魏使が出雲を訪れた記述はなく、いかにしてその官の名を知り得たかは謎ですが、前回述べたように宗像が出雲の管理下にあったならば、出雲の官を務めていた物部氏当主の河内彦が宗像を訪れることもあり得、魏使と接触する機会もあったと思われます。また、崇神天皇が奴国の出身であるなら、崇神天皇は奴国時代にすでに物部氏との交流を深めていた可能性も否定できないでしょう。

倭国と魏との関係史

狗奴国は、魏志倭人伝の中にのみ現れ、我が国の国史には表れておりません。そこでまず、魏志倭人伝から狗奴国登場に至る、我が国と魏の外交史を見ていくことといたしましょう。

卑弥呼の朝貢とその返礼は、景初2年(西暦238年)6月に、大夫難升米と次使都市牛利を魏の首都洛陽に送って朝貢したことに始まります。これに対して、同年12月に詔書が下され、難升米と都市牛利に官位が与えられると同時に、大量の賜り品が届けられます。また、正始元年(西暦240年)には、帯方郡太守弓遵が梯儁らを下賜品とともに倭国に派遣します。正始四年(西暦243年)に今度は倭王が、大夫伊聲耆、掖邪狗等八人を魏に派遣して朝貢し、官位を授けられます。

つぎの正始6年(西暦245年)に難升米に「黃幢」をもたらしたとの記述があるのですが、ここで軍旗である「黃幢」が出てくるのは少々唐突であるように思われます。これに関しましては、「黃幢」は「黃憧」の誤記であり、天子が倭国王卑弥呼の健康状態を懸念するお言葉を賜ったとの意との主張が正しいように思われます。この「黃幢」は、続く記述に引っ張られての誤記だったのではないか、ということですね。

ついで、正始8年(西暦247年)に、卑弥呼は載斯(サイシ)と烏越(ウエツ)を帯方郡に遣わし、弓遵に代わって着任した太守の王頎に、狗奴国と戦争状態になっている旨を上奏します。ここでいよいよ、狗奴国との騒乱が記述されるわけです。

この要望を受けて太守王頎は、塞曹掾史の張政らを倭国に派遣するとともに、詔書と黄幢をもたらして、難升米に与えます。張政らは、泰始2年(西暦266年)と推定される二代目倭国女王の朝貢に同道して帰国したとの記述があり、20年近くを日本に滞在して過ごしたものと思われます。

同時期の半島情勢:高句麗丸都城の落城

ここで一つの疑問は、何故に国内の戦乱である卑弥呼の倭国と狗奴国との戦に関して、魏の太守に上奏などしなければいけないか、という点です。この戦に魏の介入を要請する理由が果たしてあったのか、という疑問ですね。

ただしこの戦が、半島情勢に関連して起こっていたとすると話は変わってまいります。つまり、狗奴国に何らかの半島勢力が関与していた場合に、この問題は魏の問題でもあることになるわけです。

卑弥呼が狗奴国との戦乱への助力を魏に申し出でた、西暦247年に近い時期に発生した朝鮮半島の一大事件として、高句麗の丸都城(ガントジョウ)を魏の将軍毌丘倹(カンキュウケン)が攻め落としたことがあげられます。Wikipediaの紹介する三国志魏志の記載によれば、このいきさつは次のようになります。

元々は、高句麗は魏と同盟関係にあり、魏による公孫氏討伐の際には援軍を派遣したりもしていたのですが、公孫氏滅亡後には高句麗と魏との関係が悪化し、魏は西暦244年と245年の二回にわたり、将軍毌丘倹の率いる高句麗遠征軍を派遣し、高句麗の首都丸都城を落とします。

高句麗の東川王は沃沮・不耐の故地にまで逃がれたとされておりますが、同時に多くの敗残兵が算を乱して潰走したことでしょう。その中には、日本海を渡るものがあっても不思議はなく、出雲の港にこれらの敗残兵が流れ込むことも十分に考えられます。

敗残兵の数が多ければ、出雲にこれを受け入れる余地もなく、それが武装兵であるなら、他国を襲ってこれを領地とすることもあり得る。出雲が狗奴国であるなら、狗奴国と卑弥呼を共立した倭国との間に戦乱が勃発したであろうし、それが魏に敵対する半島勢力であるなら、魏の支援を要請することも自然な姿であるように思われます。

これは正始8年(西暦247年)に、卑弥呼が載斯(サイシ)と烏越(ウエツ)を帯方郡に遣わしたとする魏志倭人伝の記述と、タイミング的にもよく合うのではないでしょうか。

温羅伝説

この戦と関連するかもしれない逸話に温羅伝説があります。温羅伝説は、岡山県に伝わる民話「桃太郎」の元になった話でもありますが、岡山県総社市奥坂には、鬼城山と呼ばれる謎の山城があり、温羅伝説が何らかの史実に基づいている可能性は高いものと思われます。Wikipediaによれば、温羅伝説はおおむね以下のような話となっております。

まず、異国から飛来した「温羅」は吉備に製鉄技術をもたらしたのですが、鬼ノ城を拠点として一帯を支配するに至ります。これに対して崇神天皇は吉備津彦を派遣し、これを討たせます。この際、川が血の色に染まったといいますから、相当に大きな戦いで、犠牲となったものも多かったのでしょう。

ここで、温羅は「異国から飛来して」とありますように、本邦の勢力ではない様子です。山城を築くのは朝鮮半島の常道であることから、温羅が半島勢力である可能性は極めて高く、またその時期も一方の立役者が吉備津彦でありますことから、時間的にも狗奴国との戦乱の時期に一致いたします。

吉備津彦は「彦五十狭芹彦命(ヒコイサセリビコノミコト)」と呼ばれ、「ヒコ」と「ミコト」を除けば「イサセリ」となるのですが、正始四年(西暦243年)に朝貢をおこなった際の正使「伊聲耆(イゼキ)」との音の一致が注目されます。伊聲耆が吉備津彦であると致しますと、彼は「太夫」とされていることから吉備の王であったのでしょう。

伊聲耆が吉備津彦であるなら、正始四年朝貢使節の副使をつとめた「掖邪狗(エキガク)」は、吉備津彦と行動を共にしていた彼の弟、若彦である可能性が濃厚です。「掖邪狗(エキガク)」の最初の文字がワ音に対応する文字(挖など)の誤記であれば、「ワカク」と発音されていたとも考えられ、「若彦(ワカヒコ)」とも音が一致いたします。

若彦は、日本書紀で「稚武彦命(ワカタケヒコノミコト)」、古事記で「若日子建吉備津日子命(ワカヒコタケキビツヒコノミコト)とされた吉備津彦の弟であり、吉備津彦の後継者にもなり得る人物です。掖邪狗(若彦)は、西暦266年の朝貢使節を正使として率いており、しかも「太夫」とされておりますことから、この間に吉備津彦から吉備の当主の座を引き継いだと考えることも妥当でしょう。

なお、記紀は吉備津彦らを孝霊天皇の皇子としております。その可能性は否定されないものの、この時点では大和王権の支配は吉備にまでは及んでおらず、吉備の支配者で大和王権と直接の血のつながりはなかった可能性も高いものと思われます。


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