Dain氏の5/9付けBLOGOS記事「人はなぜ遊ぶのか『遊びと人間』」にコメントしました。
あそびという概念にはいろいろなレベルがあって難しいのですが、エントリー主の結論はまず妥当なものです。
その社会・文化的活動の予行演習に相当するものを遊びと定義するならば、「人はなぜ遊ぶのか」という問いへの答えは、結果的に「本能」になるだろう
更にこの背景にあるのは、人も動物も、自然界を認識しているのは、おのれの頭脳の中にある外界のモデルを構築するという形で認識しており、「遊び」とは、行為自体に必要性を伴わない局面で、このモデルを構築する行為だということなのですね。
つまり、手を動かそうとすると手が動く。どのくらいの力を入れるとどのくらい動くかということは、必要に迫られていろいろな力を入れて習得することもできるけれど、必要がないと時にこれを試すこともでき、そうすることで必要が生じたときに素早く適切な反応ができるというわけです。
実は、現代制御理論というデジタル制御システムにも、この手の外界のモデル(オブザーバー)をもつものがあり、どのような出力をアクチュエータに与えると、どのような運動が得られるかをあらかじめ制御装置内のモデルに作り上げておく。これ、ひょっとすると、今日の制御装置では、あたり前のように入っているかもしれません。
こうなりますと、ロボットも遊ぶ本能を持つ、ということが言えるかもしれません。ときどき手足を動かして、動作に必要な推力をチェックするのですね。AIだって、ラーニングしようと思えばデータが必要で、未来のスマートフォンは、時々おかしなことを言ってユーザをおもちゃにしてくれるかもしれません。つまるところ、人間も動物も、その精神は、所詮コントローラ、制御装置だということですね。
面白いですね。