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俯瞰:邪馬台国(その7)王権の継承

邪馬台国として人口に膾炙しております3世紀中葉の「倭女王国」最大の危機は、卑弥呼の死後に勃発したと魏志倭人伝が伝えております内乱でしょう。本論は、これまでの「俯瞰:邪馬台国」シリーズと同様、今日に伝わる様々な情報を筆者の想像力で補強して、筋の通る物語の形に組み立ててみることといたします。その蓋然性が高そうであると私が考えていることは確かですけど、事実である保証はない、という点にご注意ください。


卑弥呼の崩御とその後の混乱

魏志倭人伝(百衲本(原文、書き下し文、現代語訳))に、次のような短い一節があります。

卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與
卑弥呼以って死す。冢を大きく作る。径百余歩。徇葬者は奴婢百余人。更に男王を立つ。国中服さず。更に相誅殺し、当時、千余人を殺す。復(また)、卑弥呼の宗女、壱与、年十三を立てて王と為す。国中遂に定まる。政等は檄を以って壱与に告諭す。

魏志倭人伝のこの短い記述は、今日であれば、大ニュースとして世界中に伝えられそうな、次のような内容を含んでおります。

  • 倭女王卑弥呼の崩御
  • 直径百余歩(150m)の巨大な墓の築造と奴婢百余人の徇葬
  • 後継の倭国王に男王が立つも、国中がこれを不服として武力衝突に発展、死者が千人を超す
  • 卑弥呼の宗女(同族の女性)で13歳の「壱與(イヨ)」が倭国女王に就任して混乱が収束
  • 倭国を訪問中の魏使長政らが壱與と面会

魏志倭人伝のこの記事は、正始八年(西暦247年)の女王国と狗奴国との紛争に関する記事の次に書かれております。また、この引用部の次の記事は壱與による朝貢に関わる記事で、魏志倭人伝に年代の記述はないのですが、晋書にあります泰始2年(西暦266年)の朝貢がこれに該当する(西晋の時代だから魏志倭人伝には年代の記述がされなかったと推定)と致しますと西暦250年から260年ごろの間にこれらの出来事が起こったものと推定されます。(参考:本シリーズ(その3)

「卑弥呼以死」という文章を、「以て卑弥呼死す」と読み下し、その前に記述された狗奴国との紛争が卑弥呼死亡の原因であるとの解釈もなされますが、本論では、「卑弥呼以死 大作冢」と続けて読み、「卑弥呼の死を以て大いに冢を造る」と読み、卑弥呼の死が冢(墳墓)を造る原因であったとみております。このため、卑弥呼の死は西暦247年から隔たっていることもあり得ます。ただし、後ろに266年の朝貢が控えており、朝貢に先立つ様々な準備もあろうことから、卑弥呼女王崩御は250年代と想定するのが妥当でしょう。

径百余歩の円墳

ここで、「徑百餘歩」とあります卑弥呼の墳墓ですが、「歩」は長さの単位で1.44m、百余歩はおよそ150mに相当します。直径150mの墳墓は、この当時にしては巨大なのですが、箸墓古墳の後円部、径約150メートル、高さ約30メートルとほぼ同一であることから、箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないかとする説が有力です。

この場合の問題は、箸墓古墳が前方後円墳であることで、円墳と解釈される魏志倭人伝の記述と異なっております。箸墓古墳の前方部も含めた全長は278mであり、魏志倭人伝が直径のみを記述することは不自然です。

この問題に応える一つの可能性として、卑弥呼が葬られた時は円墳であったが、後に前方部を継ぎ足して前方後円墳とした、という説が唱えられております。この根拠として、前方部と後円部のテラス(段差)の高さに食い違いがあるという事実があります。地上に重量のあるものを建造すると、地盤沈下により徐々に高さが下がります。前方部と後円部と異なる時期に建造された場合、建造時期の差により沈下量が異なり、前方部建造時にテラスを同じ高さとした場合、その先の沈下量の違いにより、段差の高さに食い違いが生じることになります。

下図は、橿原考古学研究所とアジア航測が発表した、レーザによる航空計測による箸墓古墳の立体地図で、右側に墳丘段の構成を追加ております。この輪郭線をみますと、右図から前方部と後円部のテラスの高さが異なっていることが読み取れます。(図はクリックで拡大)

当初の箸墓古墳は直径150mの後円部のみであり、魏志倭人伝の伝える卑弥呼の「冢」は箸墓古墳後円部であったとする説は、今日残された痕跡の多くをよく説明することから、本論でも取り入れたいと考えます。また、前方部が継ぎ足された経緯に関しては、後ほど改めて論じることといたします。

なお、徇葬に関しては、我が国の墳墓からはそのような痕跡が認められないこと、記紀の垂仁記に書かれた徇葬と埴輪の起こりの記事は現実味に乏しいことから、卑弥呼の墳墓への徇葬は疑問であり、徇葬に近い行為がなされたとしても、たとえば内乱の犠牲者千余人に含まれていたであろう奴婢たちの合葬などがこのように記されたのではないでしょうか。

男王の即位と内乱の勃発

卑弥呼の死後に立った男王が誰かということに関しては、その出身などは不明ですが、卑弥呼について書かれた魏志倭人伝の以下の部分に記述された男弟なり男子一人がこれに該当するのではないかと思われます。

其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛
「その国、本は亦、男子を以って王と為す。住むこと七、八十年。倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共に立て王と為す。名は卑弥呼と曰う。鬼道に事え能く衆を惑わす。年すでに長大。夫婿なく、男弟ありて、佐(たす)けて国を治める。王と為りてより以来、見有る者少なし。婢千人を以(もち)い、おのずから侍る。ただ、男子一人有りて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入りす。宮室、楼観は城柵が厳設され、常に人有りて兵を持ち守衛す。

卑弥呼は、各国に「共立」されて王となったものであり、各国が卑弥呼を支持した理由は「事鬼道能惑衆」つまり、巫女としての能力が優れていたことですから、これまでただ一人卑弥呼に会うことが許されていた男弟といえども勝手に倭王を継ぐわけにはいかないことは当然です。しかしここで男弟は何か勘違いをいたしました。ひょっとすると、彼は卑弥呼の言葉を人々に伝えていたのではなく、卑弥呼に代わって、自らの言葉を人々に伝えていたのかもしれません。卑弥呼が死亡する以前から卑弥呼の意思疎通が難しくなっていればそのようなことも起こり得るわけで、これに類することがあるなら、男弟は自らが国王であるような気になっても不思議はないのですね。

いずれにしても、卑弥呼の死を受けて男弟が勝手に国王を名乗る一方、各国はこれを許さないという事態が生じ、卑弥呼の王宮は兵と城柵で厳重に守られていたことから、これを攻め落とすために多くの犠牲者を出す結果となったということでしょう。

二代目女王「壱與」の擁立

魏志倭人伝の記述によれば、二代目女王として卑弥呼の宗女で齢13歳の「壱與」を擁立し、各国の支持を得て、倭国に平安が戻ったとしております。倭国女王に関しては、このシリーズの「(その3)大和王権と二人の倭国女王」、「(その4)尾張氏と倭国王」でも論じましたが、壱與は卑弥呼の宗女とされておりますので、この二人は同族の女性であったと見なされており、同じ出身母体であったものと思われます。本論では、(その4)でご紹介しましたように、美濃の尾張の拠点「火高火上屋敷」で、卑弥呼や壱與は中国語の読み書きを含む巫女教育を受けたものと考えております。

記紀に卑弥呼や壱與の記述がないことは、邪馬台国畿内説の一つの弱点とされております。ただし、欠史八代に関しては、元々記述が少ないこと、特に本論が推定している「開化天皇=尾張の当主建田勢」であると致しますと、開化天皇時代の行跡をあまり詳しく書けないという事情もあったでしょう。また、当時の倭国王は、形式的儀礼的な存在であって、実際の政治権力は各国の王が押さえていたとすれば、卑弥呼の行跡を詳しく記す理由がないことも理解できます。

一方、壱與は、記紀は「壱與」を「倭迹迹日百襲姫命」と記述したと本論では推定しております。倭迹迹日百襲姫命も墳墓は箸墓古墳とされているのですが、この古墳の別名を「大市の墓」といい、駆け出しの巫女の呼び名である「市」の文字がそこには記されております。齢13歳の巫女であれば、「壱與」が「市」とみなされていた可能性は非常に高く、これを魏使は「壹」と書き記したことは自然な姿であるように思われます。この場合、「與」の部分は「市子(イチコ)」の「コ」の部分が「與」と記されたのかもしれませんし(「興」の誤記か)、あるいは助詞的に使用されていた「與」が人名の一部と誤認されたのかもしれません。いずれにせよ、魏やその後の中国人から見て外国である倭国の固有名詞は、彼らにしてみれば意味のない文字列であり、誤認や転記ミスが発生する可能性は他の部分に比べて高かったはずで、この部分もその一つといえそうです。

当時の大和は、尾張の当主建田勢が開化天皇として大和の王を務めていたと本論は推定しており、これが正しければ、大和に都した倭国女王のバックには尾張一族があったものとするのが最も自然でしょう。また、箸墓古墳の後円部には吉備式特殊器台による装飾が施されていたということで、吉備もまた女王国をバックアップした主要国でしょう。そして、葛城氏や紀氏といった大和周辺の有力豪族は尾張氏と姻戚関係を深めており、二代目女王をサポートする陣営は相当に強固であったものと推察されます。壱與擁立により国内が遂に定まったことは、自然な流れであったといえるでしょう。

崇神東征(?)

下図は、日本書紀に基づく第一代から第十一代に至る天皇系図です(クリックで拡大)。このうち、第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までの事績は、記紀にはほとんど書かれておらず、この八代は総称して欠史八代と呼ばれております。下図に緑で示しました欠史八代の天皇に関する記紀の記述は、ほとんどが御所市周辺に限られており、倭国王ではなく、大和の王の記録とみなすのが妥当であるようにも思われます。開化天皇は欠史八代の一員で記紀の記述にも乏しいのですが、本シリーズの「(その1)邪馬台国の人びと」に書きましたように、尾張の建田勢であって魏志倭人伝に書かれた様々な活動をしたと本論では考えております。

第一代の神武天皇に関しては、九州から大和に東征するという広い範囲をカバーする事績が記紀に書かれているのですが、考古学的な裏付けに乏しく、神武天皇に関する逸話の現実性は疑問視されております。また、第十一代垂仁天皇の事績は、物事のはじまりに関するリストであり、垂仁天皇の実在性にも疑問が投げられております。そこで、本論ではこの二人の天皇は不在であったと考えております。

魏志倭人伝に記述された邪馬台国の官名「伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮」のうち、「伊支馬(イキマ)」を「活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)」に、「彌馬獲支(ミマカキ)」を「御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)」に本論ではあてております((その1)邪馬台国の人びと参照)。そして、イキマがミマカキの前に記述されていることから、崇神天皇(ミマカキ)の先代である開化天皇の和風諡号が「活目入彦...」であり、垂仁天皇は不在、田道間守は開化天皇に仕えた人物であると考えております。

このようにいたしますと、和風諡号に「入彦(イリビコ)」が現れるのは開化天皇と崇神天皇の二人ということになり、その共通性が注目されます。一つには、それまでの第二代綏靖天皇から第八代孝元天皇に至る王宮がおおむね御所市周辺の狭い領域に営まれたのに対して、開化天皇は今日の春日大社の近く、崇神天皇は三輪山南麓と、従来とは相当に異なる位置に御所を構えました。もう一つの両者に共通する点が、開化天皇の母親が「欝色謎命」、崇神天皇の母親が「伊香色謎命」と、いずれも「色謎」の文字が入っている点です。この文字は「シコメ」と読み、醜い女性を意味する「醜女」の読みでもあります。そして、「醜女」は古事記にも登場しているのですね。

古事記の醜女が出てくるエピソードは、死亡した妻イザナミノミコトに会いたいと、イザナギノミコトが黄泉国(よみのくに)を訪れた時の話です。イザナギが、見るなといわれたイザナミをみるとすでに蛆がたかっている。これを見て逃げ出したイザナギにイザナミが怒り、黄泉の国の魔女、黄泉津醜女(よもつしこめ)を遣わしてイザナギを追わせるのですね。イザナギは、いろいろなものを投げつけて、何とか黄泉津醜女から逃れるのですが、大変に怖い思いをいたします。いずれにいたしましてもここに「醜女(しこめ)」が現れていることは注目に値します。つまり、記紀の編者はシコメの意味を知っていた。そして、開化天皇と崇神天皇の母親にこの文字を使いましたことは、彼らにあまり良い感情を持っていなかった可能性があるということを示唆いたします。また、母親の名前に手を加えている以上は、この部分で、記紀に記された系図には、何らかの加工が施されたことが疑われるわけです。

そこで本論は、「入彦(イリビコ)」を「入り婿」と推定し、開化天皇と崇神天皇は、天皇系図の外側から入ってきた人物であると推定いたします。開化天皇については、魏志倭人伝に記述された邪馬台国の人口が戸数にして七万戸と、大和盆地に収めるには無理があることから、丹波から美濃に至る尾張氏の支配領域を加えた領域が「邪馬台国」と認識されたものと推定し、開化天皇は尾張の当主建田勢と同一人物であると結論付けております。この詳細は、「(その1)邪馬台国の人びと」に記しましたのでこちらもご覧ください。

崇神天皇につきましては、建国神話の構成から奴国の王であるとするのが妥当と考えられます。崇神天皇が奴国王であるとの推定は、我が国の半島交易のあり方にも合致し(後述)、四道将軍が九州に派遣されなかったという記述もこれをサポートします。

四道将軍の派遣先は、下図(崇神天皇が各国に派遣した四道将軍の経路を示すWikipedia Commonsの図)に示すように、大彦命が北陸道に、武淳川別が東海道に、吉備津彦が西海道に、丹波道主命が丹波に遣わされております。これらの人物と派遣先は、以下のように、それぞれ関係のある地域に派遣される形となっております。

  • 尾張勢の主力部隊を率いる大彦は、後に陸耳の三笠の乱などが起こる政情不安の地である北陸道を担当
  • 尾張勢の第二軍を率いていたと思われる大彦の息子武淳川別は、比較的平穏であった東海道を担当
  • 吉備津彦は、吉備の指導者で、吉備の地に派遣(古事記では、吉備津彦は、孝霊天皇の時代に吉備に派遣され、この地を平定したとしております。しかしながら、魏志倭人伝の記述では、丹波、美濃を邪馬台国に含む記述がなされる一方で、吉備は独立国として扱っており、この時代までは大和王権は吉備を実効的に支配することはなかったと考えられることから、本論では日本書紀の記述を採用いたします)
  • 丹波道主命は文字通り丹波の人間であり、丹波に派遣(古事記には丹波道主命の丹波派遣に関わる記事はない)

ここで一つ、奇異に思われる点が、総戸数3万戸を抱え倭国を支える主要地域の一つである北九州への派遣がおこなわれていない点です。これは、崇神天皇が奴国王と同一人物であれば、あえて使者を派遣する理由もなく、四道将軍の派遣先に奴国が含まれないことには合点がいきます。

崇神天皇に期待された役割

日本書紀の崇神天皇の条項の最初に近い箇所で、天照大神(アマテラスオオミカミ)、倭大国魂(ヤマトオオクニタマ)の二柱を御所のうちに祀ったという記事があります。これは、国内に疫病が蔓延したことから、その退散を祈ってのことなのですが、霊力が強すぎて家人に恐れられてしまいます。天照大神は、大和笠縫邑(かさぬいのむら)に移して祀り、こちらは事なきを得るのですが、日本大国魂神をあづけられた淳名城入姫命(ヌナキイリビメノミコト)は病気になり、お祀りすることができなかったと日本書紀には書かれております。

この神を祀るという行為は、おそらくは霊力の強いとされた鏡を祀った可能性が高いように思われます。ここで重要な点は、崇神天皇は最初からこれに使えるような道具を持っていたという点です。崇神天皇がなぜこのようなが霊力の強い(と当時の人びとに意識されるような)神宝をもっていたか、という点が一つの謎ということになります。

霊力の強い鏡といえば、三種の神器の一つである八咫の鏡を連想するのですが、八咫の鏡は伊勢神宮に収められているもの以外にもいくつか存在することが知られております。その一つは、下に写真を示す伊都国平原遺跡から出土したものです。また、その6で書きましたように、紀伊の日前(ひのくま)神宮と國懸(くにかかす)神宮にそれぞれ一枚ずつの八咫鏡が収められております。これらの鏡を社伝では、神武東征の折に紀伊氏にもたらされた、としておりますが、神武天皇が不在であるとの本論の前提に立てば、その出どころは、崇神天皇が筑紫の地からもたらした八咫鏡であったと考えるのがよさそうです。崇神天皇は、後に出雲の神宝を入手するのですが、この中に八咫鏡が含まれていれば、以前からある八咫鏡(試作品とされています)はもはや不要であり、これを大和王権を支える有力豪族の紀氏に委ねることはありそうな話です。紀氏は、尾張氏の直近二代の当主が迎えたのが紀氏の姫であるほか、崇神天皇自らの二人目の妃も紀氏の出と、大和王権とは特に縁の深い氏族でした。

伊都国平原遺跡から出土した八咫鏡

崇神天皇がこのような神宝を持参した理由に、崇神天皇自らが卑弥呼や壱與の役割を担う可能性を意識していたという動機があり得ます。このシリーズの「(その1)邪馬台国の人びと」に書きましたように、奴国がかつて出雲より倭国王権を譲られ、倭国を代表して半島交易を営んでいたと、本論では考えております。当時の我が国には製鉄技術は伝わっておらず、朝鮮半島の弁韓から入手していた旨が、魏志倭人伝を含む魏志の東夷の条に述べられております。当初半島との鉄の交易をおこなっていたのが奴国であり、倭国大乱後はこの立場が伊都国ないしこれを支配した女王国に移ったのであれば、奴国としては半島交易の主導的立場に復帰することが宿願であったはずで、崇神天皇が何らかの形でこれを実現しようとすることは当然ともいえるでしょう。

尾張が崇神天皇に期待したことは、齢13歳の壱與のサポート役で、卑弥呼を佐治した男弟の立場を崇神天皇に期待したのでしょう。もう一つには、尾張の押さえる戸数7万戸の邪馬台国に加え、戸数2万戸の奴国(他の北九州諸国を入れれば3万戸になる)との同盟が成れば、邪馬台国に次ぐ一大勢力である戸数5万戸の吉備に十分に対抗できると考えることは筋が通っております。

壱與のサポート役という意味では、かつての奴国の王であったと考えております「大夫難升米」は、大陸との交渉役を果たせるだけの能力も備え、正始4年(西暦247年)の魏志倭人伝の記述に、「遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之(塞曹掾史、張政等を遣わし、因って詔書、黄幢を齎し、難升米に拝仮し、檄を為(つく)りて之を告諭す)」とありますように、張政等と筆談することもできました。崇神天皇が奴国の王であれば、同様の能力を受け継いでいたでしょうし、この能力は海外との交渉役も務める倭国王の補佐役には好適と考えられたでしょう。なお、魏志倭人伝には、壱與もまた張政等と筆談した旨の記述があり、この能力は実際に役立ったものと思われます。

いずれかの段階で、崇神天皇が開化天皇の次の代の大和の国王に就任します。これを記紀は天皇位を引き継いだと記述します。もちろん崇神天皇が引き継いだ国は大和の国だけであり、元々の尾張の支配する国である丹波や美濃は尾張の支配する国々として、尾張の当主が王を務めていたのでしょう。また、このシリーズ前回の「(その6)倭人伝の倭国地理」でご紹介したように、大和盆地南側の御所市周辺が高市の国として大和の国とは別の国を構成していたと致しますと、こちらは葛城氏が王を務める国であったはずで、崇神天皇の支配する大和の国は、奈良盆地の北半分という、きわめて小さな領域にとどまっていたものと思われます。

それでも、崇神天皇にとって十分な意味を持ったのは、上に述べましたように、半島交易を奴国の管理下に取り戻せるからであって、鉄をはじめとする様々な舶来品の流通を独占することは、奴国にとって大きな経済的利益があったものと思われます。なお、卑弥呼の時代には、半島交易は伊都国が女王国の管理下でおこなっており、おそらくは、その実質は吉備の国の制御下で行われていたのではないでしょうか。尾張にせよ、畿内有力豪族にせよ、半島交易を吉備に任せていたのでは、海外産品を高値で売り付けられる。それよりは、自分たちのコントロールできる崇神天皇に半島交易を任せることで、安価な舶来品を手に入れられると期待したのかもしれません。

崇神王は、就任して間もなく、御所を磯城(しき)の瑞籬宮(みずかきのみや)に移します。この御所は、当時信仰の対象であった三輪山の南麓(志貴御縣坐神社(しきみあがたにますじんじゃ)付近)に比定されており、倭国女王の宮廷があったとされる纏向、あるいは卑弥呼の墓所とされる箸墓古墳に非常に近い位置にあります。

記紀をみると、倭迹迹日百襲姫命は崇神天皇に種々の助言を行っております。倭迹迹日百襲姫命は崇神天皇に巫女的なサービスをする立場のような記述に記紀はなっているのですが、倭迹迹日百襲姫命が二代目倭国女王であるならば、この立場は逆であるはずで、崇神天皇は卑弥呼における男弟的な役割が期待されていてもおかしくはないように思われます。倭迹迹日百襲姫命が崇神天皇以外にも種々の巫女的サービスを行っていたとしても、そのような活動が記紀に記載されることはありそうにも思われません。記紀はあくまで、天皇のなされたことを中心に記録しておりますので。

二代目倭国女王壱與の崩御と箸墓古墳の成立

日本書紀は、迹迹日百襲姫の崩御を、崇神十年の武埴安彦の乱の鎮圧の記事の直後に記述しています。迹迹日百襲姫の死をめぐる日本書紀の記述は荒唐無稽であり、真実のようにも思われませんが、いずれにせよ墳墓が構築されているわけですから、このころに亡くなられたことだけは確かでしょう。

本論ではこれを、二代目倭国女王壱與(市)の崩御とみなしているのですが、この記事に続く箸墓古墳築造と四道将軍の派遣と帰還の記事の後で、日本書紀は崇神天皇が「御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)」と呼ばれるようになったと記されております。これは、神武天皇が「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と呼ばれたことと重複しているようにも思われますが、「二代目倭国女王の崩御により崇神天皇が倭国王の地位を継承した」と解釈すれば、極めて妥当な記述であるように思われます。

崇神天皇は、迹迹日百襲姫を箸墓に葬ります。日本書紀の崇神天皇の条には、この状況を「乃葬於大市。故時人號其墓謂箸墓也、是墓者、日也人作、夜也神作、故運大坂山石而造、則自山至于墓、人民相踵、以手遞傳而運焉。」と描写いたします。すなわち、迹々日百襲姬を大市という場所に葬ったこと、箸墓の名の由来、昼は人が作り夜は神が作ったこと、大阪山の石を運ぶため山から墓まで人々が並んで手渡ししたこと、などです。昼は人が作り、夜は神が作るという記述から、非常な短時間で墓が作られたことがわかります。

ここで、箸墓古墳が卑弥呼を葬った円墳であるとすると、ここ部分の記述と矛盾するのですが、崇神天皇が、元々あった卑弥呼の円墳につながる形で前方部を築造し、これを迹迹日百襲姫の墓としたのであれば、すべてが矛盾なく説明されます。そして、「径百余歩の円墳」の節にも述べました通り、テラス(段差)の高さが前方部と後円部で食い違っていることから、この双方が異なる時期の築造である可能性を示唆し、この説を補強しております。

前方後円墳の前方部と後円部に異なる人物を埋葬する例は、他にも知られております。下の写真は、前にもご紹介いたしました橿原考古学研究所とアジア航測が発表した、レーザによる航空計測による箸墓古墳の立体地図に示された西殿塚古墳の赤色レーザ図で、後縁部の他に前方部の方壇が明瞭に認められております。

箸墓古墳は、現在は前方部の盛り上がりが認められないのですが、古くは前方部にも盛り上がりがあったことが知られております。下の写真は、「『卑弥呼の墓』箸墓古墳、鮮明に 最古の古墳写真、宮内庁が保存」と題する産経デジタルの2014.5.19付けの記事に掲載されたもので、明治9年に撮影された箸墓古墳の姿とされております。これをみますと、箸墓古墳も、後円部と前方部の双方に明らかな盛り上がりが認められ、前方部に第二の人物を埋葬した可能性を示しております。

古代において、これだけの巨大な墳墓を築造することは相当な困難が予想されます。卑弥呼の墳墓につきましては、この一帯に多数の水路が形成されておりますことから、水路掘削時に発生した土砂を積み上げた山が予めあったのかもしれません。あるいはこれが三輪山のミニチュアとして宗教的目的で利用されていたのかもしれません。いずれにしても、このような既存の丘を卑弥呼の死後に墳墓に転用するなどすれば、比較的容易に巨大墳墓を造ることもできます。

前方部に関しては、日本書紀の記述からも、迹迹日百襲姫(市:壱與)の死後に崇神天皇の指揮下で築造されたのでしょう。この時は、周濠も作られておりますので、周濠を掘削し出た土砂を前方部の用土に利用して築造することもできたでしょう。

今日の箸墓古墳前方部には、鳥居と拝礼場所がしつらえてあり、下の写真に示す木札が立てられています。そこに記された墳墓の名称は「大市墓」。まさに本論の推察を補強するような、宮内庁の仕事ではあります。

付記:上にご紹介しました西殿塚古墳に関してもいろいろと謎があります。この陵は第26代継体天皇の皇后手白香皇女(たしらかのひめみこ)を埋葬したとされているのですが、出土品から西殿塚古墳の築造は4世紀前半とみられており、その埋葬者を6世紀の人物である手白香皇女とすることは、おそらく事実に反します。

ではだれがこの陵の埋葬者かという問題になるのですが、壱與の時代に活躍したその他の女性といえば、崇神天皇の二人の妃、大海姫と御間城姫あたりがこれに妥当しそうです。この四人の女性たちと大彦らの豪傑が繰り広げる物語は、実際のところ、相当なドラマであったのではなかろうか、と想像をたくましくしております。


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