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津田正太郎氏の7/7付けBLOGOS記事「コロナ禍で人びとは『騒ぎすぎ』なのか」へのコメント

津田正太郎氏の7/7付けBLOGOS記事「コロナ禍で人びとは『騒ぎすぎ』なのか」にコメントしました。


新型コロナは、たしかに恐るべき病気で、犠牲者が多すぎて医療が崩壊、墓穴を掘るのも追いつかず棺桶の山が築かれるといった、当初世界各地で生じた惨事を忘れちゃいけません。普通の感覚では把握しがたい指数関数的増加(ネズミ算、ともいう)の恐ろしさを知らなければいけません。

「正しく恐れる」という言葉は、無用に心配するなという意味で使われがちなのだけど、そのもととなった、寺田寅彦が昭和10年に発表した随筆「小爆発二件」(青空文庫所蔵)の中で述べた「正当にこわがることはなかなかむつかしいこと」の意味は、危険性をきちんと認識して、ちゃんと怖がれ、という意味なのですね。(以下、ブログ限定ですけど、関係部分を青空文庫から引用します。最後の伏字が気になりますが、これは寺田虎彦自身によるもので、何を意味するかは「謎」ということです。おそらくは、当時の政治情勢に関するものではないか、と考えられているのですが。)

 浅間観測所の水上みなかみ理学士に聞いたところでは、この日の爆発は四月二十日はつかの大爆発以来起こった多数の小爆発の中でその強度の等級にしてまず十番目くらいのものだそうである。そのくらいの小爆発であったせいでもあろうが、自分のこの現象に対する感じはむしろ単純な機械的なものであって神秘的とか驚異的とかいった気持ちは割合に少なかった。人間が爆発物で岩山を破壊しているあの仕事の少し大仕掛けのものだというような印象であった。しかし、これは火口から七キロメートルを隔てた安全地帯から見たからのことであって、万一火口の近くにでもいたら直径一メートルもあるようなまっかに焼けた石が落下して来て数分時間内に生命をうしなったことは確実であろう。
 十時過ぎの汽車で帰京しようとして沓掛くつかけ駅で待ち合わせていたら、今浅間からおりて来たらしい学生をつかまえて駅員が爆発当時の模様を聞き取っていた。爆発当時その学生はもう小浅間こあさまのふもとまでおりていたからなんのことはなかったそうである。その時別に四人連れの登山者が登山道を上りかけていたが、爆発しても平気でのぼって行ったそうである。「なになんでもないですよ、大丈夫ですよ」と学生がさも請け合ったように言ったのに対して、駅員は急におごそかな表情をして、静かに首を左右にふりながら「いや、そうでないです、そうでないです。――いやどうもありがとう」と言いながら何か書き留めていた手帳をかくしに収めた。
 ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた。○○の○○○○に対するのでも△△の△△△△△に対するのでも、やはりそんな気がする。

一方でパニックも困る。リースマンは「孤独な群衆」(左は現在絶版で、古本のみ。改訂版は上巻下巻の二冊構成、結構高い)の中で、人は自律型、適応型、破壊型(アノミー)に分類され、適応型の人の比率が多い今日の社会は変化に脆弱であると書きました。確かに、周囲に左右されやすい適応型の人が多いと、パニックは発生しやすい。これを防ぐためには、自分の頭で物事を考える、自律型が多くなくてはいけない。

指導的立場にある人は、特に自律型である必要があるのですが、適応型どころか、アノミー的人物が政治やマスコミの世界に多いことが大問題なのですね。「わからない」などということを事細かに宣伝する政治家がいたずらに不安を煽っていることは、「Timendi causa est nescire.(無知は恐れの原因である)」などという格言を引用するまでもない、あたり前のことだし、何の役にも立たないのですね。

反政府運動という意味では、民衆の不安を煽ることは正しい作戦かもしれませんけど、政治家、ジャーナリストがそうであって良いなどということは全然ない。こんなことをする人は、自律型どころか、アノミーに分類されるべき人々であって、社会のリーダー的立場には不適格というしかありません。

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