松田公太氏の9/26付けBLOGOS記事「外部の課題より内部抗争重視の組織と共倒れする日本」にコメントしました。
外向きの人と内向きの人、というのがどんな組織にもいるということですね。
組織の価値、存在理由は、組織の外部に対して価値を提供する点にあり、その結果組織には何らかの見返り、一般的には経済的見返りがあり、これを組織の内部の人たちに分配される。外向きの人が重視するのが『いかにして価値を提供するか』という点であるのに対し、内向きの人は見返りとして得た利益を『いかに内部に分配するか』という点を重視する。
このエントリーで嘆かれているのは、内向きの人たちが多すぎる、ということでしょう。人はだれしも己の利益が一番大事ですから、内向きの人が多くを取ってしまうと、外向きの人は割に合わない。外部に価値を提供しても一文にもならないなら、内部の分配で多くを得ることに注力したほうが全然得、ということになります。
でも組織の存在理由は、その組織が外部に対して提供する価値の部分にあるわけですから、内向きの人ばかりでは組織が衰退してしまう。有限の富の配分を重視する「米びつ論」などということが時に語られるのですが、組織にとって大事なことは、いかに社会に価値を提供するか、という点なのですね。
成果主義とか能力主義が重視するのは、本来、外部に対して提供する価値の部分であったはず。こうした人事制度なり組織改革なりがきちんと機能しておれば、外向きの人が厚遇され、その結果、組織の人たちの関心は価値の創出に向かうはずなのですね。まあ、内向きの人たちが組織内部で力を持っている限り、こうした改革は形式的なものにとどまり、その結果失敗に終わる、というオチなのでしょうけど、、、
コメントがついております。
花の ヤン
<成果主義とか能力主義が重視するのは、本来、外部に対して提供する価値の部分であったはず。こうした人事制度なり組織改革なりがきちんと機能しておれば、外向きの人が厚遇され、その結果、組織の人たちの関心は価値の創出に向かうはずなのですね。>
それはどうでしょうね。
評価する側からして迷走してますからね。
評価する基準が迷走しているわけですから、その基準で評価された能力や成果もたかが知れています。私が思うに、しっかりとした目的に合えば内向きだろうが外向きだろうが関係ないのではないでしょうか。
そういえば、進歩的知識人は脊髄反射的に「外向きがいい」とおっしゃる傾向が強いですね。瀬尾 雄三
花の ヤン さん
> しっかりとした目的に合えば内向きだろうが外向きだろうが関係ないのではないでしょうか。
組織の活動は、価値を生み出して外部に提供し、これに見合った対価を得て、これを組織内部に分配する、というプロセスからなり、内部での分配という機能も組織活動には必要です。
問題は、より多くの価値を生み出すことは意味のある行為だけど、自らにより多くを分配しようとする行為は組織にとって有害なのですね。でも、人は自らの利益を最大化しようとする欲求があり、内部での分配に関わる人は誘惑に晒されることになる。そして多くの場合、その誘惑に負けてしまう。
そうなると、価値を作りだしたり、これを外部に提供して対価を得る人たちが割を食うことになる。結局のところそういう役割の人たちもより多くの分配を受けるための活動に精を出すことになるわけですね。その行きつくところが内部抗争というわけで、このエントリーに曰く「柔軟性や成長力を失ってしまった組織では良くある事」ということになります。これ、鶏が先か、卵が先か、よくわからない部分はあるのですが、、、
結局のところ、内向きにもそれなりの意味があるのですが、『自らがより多くの分配を得るため』の内向きの活動に多くのエネルギーを割くようになると、組織は価値を生み出す機能を弱め、衰退してしまう、というわけです。内向きの活動を本務とする人たちは、この点に十分気を付けなくてはいけません。
評価なんてできるはずない