紙屋高雪氏の10/18付けBLOGOS記事「マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』」にコメントしました。
たしかに、能力は持って生まれたものが決定的であるともいえるでしょう。でも、持って生まれたものがあれば、誰もが有能な人になれるかといえばそうではない。その後の努力も必要なのですね。よく言うじゃないですか。「天才は、1%のひらめきと、99%の努力だ」とかね。このひらめきの部分が、つまり生まれながらにしてその人に備わった能力ということになります。
で、努力できるかどうかも生まれで決まる、という考え方もある。極論すれば、人の精神機能は、ニューラルネットワークという物理的実在によって作り出されているわけで、その機能の良しあしを含めたニューラルネットのすべてを決めているのは『遺伝』と『生まれ育った環境』にあって、本人の責任などこれっぽっちもない、ともいえるのですね。
でも、この考え方を敷衍すれば、いかに極悪非道な人物も、そういう行為をしでかしたのは『遺伝と環境』に原因がある、だから本人の責任を問うのもおかしい、という主張も成り立つ。
さらにこの考え方は、一つの恐ろしい結論を導く。人は、結局のところ物理的実体なのだから、社会に有害な人を消去してしまうことは何ら問題ない、当人の生存によって消費される物資の価値と、作り出すものの価値を比較して、これがマイナスなら、社会から排除するのが妥当だということにもなってしまう。これは唯物論の帰結であり、パブロフを高く評価するソ連が相当に非人道的なことをしでかした一つの論理的基盤であるようにも思えるのですね。
結局のところ、人の精神的機能のすべてが遺伝と環境という、本人に責任がない要素で定まっていたとしても、人はそれを己自身であるとして受け入れて生きていくしかない。スヌーピーが言うように、「人は配られたカードで勝負するしかない」のですよ。カードを配られた己に注目すること。それが人格の基本だし人権の基盤でもある。ここだけは、ゆるがせにはできません。
親ガチャ