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ジェネラリストは必要か?

瀬本光氏の5/8付けアゴラ記事「スペシャリストは『名ジェネラリスト』の下で輝く!?」へのコメントです。アゴラは私のコメントをブロックしておりますので、ブログ限定で、文字数を気にせず書くことといたします。


瀬本氏の主張

元エントリーの主張は、「世間では『ジェネラリストは無能』という意見がよく言われるように」なったが、「優れたジェネラリストがいるからこそスペシャリストが能力を発揮できる」のだし、「“ジェネラリスト”としての性質を持つ人でない限り、人の上には立てない」ともいえる、ということ。

そして、マネージメントの専門家など存在しないとし、理想的なありかたを次のように述べます。

キャリアの前半では何らかの専門性を磨いて「これが得意分野だ!」とアピールできる領域を持ち、周囲から一目置かれるようになった段階で「スペシャリストからジェネラリストへ転換する(つまり自分の得意分野以外にも視野を広げていく)」という手順を踏むのが王道と言えるのではないでしょうか。

さて、この瀬本氏の主張は正しいでしょうか? 私には違和感を感じるのですが。この違和感の所在と、私の理想とする姿について、以下述べてみたいと思います。

企業におけるジェネラリストの意味

ジェネラリストの一般的な意味は、何でもできる人ですが、専門分野が広範囲にわたれば、それぞれの分野の知識は浅くなる、広く浅い知識の持ち主、というような意味でしょう。

具体的に例を挙げれば、大学教育の場で全優を取るような能力の持ち主がジェネラリストで、特定の科目だけ高得点を挙げる人がスペシャリストというイメージですが、実際の会社組織の場では少し違った形で扱われています。

具体的には、社内の様々な場所を経験した人、本社以外に、工場や研究所でもある程度の実績を上げた人、複数の部門を経験した人などがジェネラリストと呼ばれる傾向が強く、幹部候補生にはあえて様々な現場を経験させるなどということがおこなわれます。

こうすることの意味は、日本企業は明確なリーダーシップをとらず、多くの人たちの思惑なり利害関係なりを調整する形で運営されるため、様々な部署の人がどのようなことを考えているかを知らないと、全体を調整することができない、という理由によるのでしょう。

さらには、それぞれの場所でのキーパーソンと阿吽の呼吸で話ができる人間関係を築いておくことがリーダー的人物には欠かせず、文書化されない、貸し借りの計算や、人事的支配関係(ぶっちゃけて言えば、ボスと子分の関係)などに通じておくことが幹部登用に欠かせない属性ということになるのでしょう。

しかしこういうやり方は、組織形態が不透明になり、責任の所在があいまいになり、非効率性が温存されてしまい、企業の力を割いてしまう。特に変化の激しい時代に適応しようとしても、力を持つ古い部門の意向を無視できず、対応が遅れてしまうといった問題を抱えることになります。

あるべき姿

マネージメント能力がないスペシャリストというのは、たとえば専門バカといいますか、特定の分野の専門能力は優れるけれど、それ以外はさっぱり駄目、靴下だってはけないというような人をイメージしてのものかもしれませんけど、普通のスペシャリストは、普通に生活できる、一見普通の人なのですね。

企業におけるスペシャリストは、予算やスケジュールの管理もできれば、部下を鍛えることができ、業務上必要な他部門の人たちとの連携もできる。まあ、こうしたことができなければ、スペシャリストといえども仕事にならない、あたり前の話です。

もちろん、中にはコミュニケーション能力の不足するスペシャリストだっているわけですが、企業だろうと大学だろうと、一人の人間がすべてをやっているというケースはあまりなく、特定の技術に刮目すべき能力のあるスペシャリストと、彼の話を理解できかつ一定のコミュニケーション能力を持つスペシャリストが組めば、強力なチームを作ることができます。

私の経験では、コミュニケーション能力は、多くの人の考えを知ることによって涵養されるわけで、一般に年配の研究者で優れる。一方で、専門能力においては若い人にきらりと光るものがあるわけで、ある程度の年齢の幅を持った研究チームを構成すれば、専門能力とコミュニケーション能力の双方で優れたチーム作りもできるのではないかと思います。

技術者による経営

少し古い本なのですが、マーク・ホールとジョン・バリーの「サンマイクロシステムズ/UNIXワークステーションを作った男たち」には、興味深い記述があります(強調は引用者)。

エンジニアリング主導企業

エンジニアリング主導型の会社は、エンジニアが組織の主導部を占めるものの、エンジニアによってのみ運営されるわけではない。技術力の追求のみに専心できるわけではないからだ。エンジニアリングを中心に運営される会社は、“開発し、プランを立て、その方向を示す”という場面で、エンジニアリングがその根拠となる。しかしサンの場合は、エンジニアリングとは単なる企業活動以上のもの―哲学でさえあるのだ。

こうしたイデオロギーとしてのエンジニアリングは、常に最新技術を渇望する。最高の技術的成果を求めてやまないのである。最も楽しい娯楽として、何かを、いや何でも、いじり回して改良するのだ。ありふれたものを高価値なものに変えるのはアドベンチャーであり、複雑なものをシンプルなものに改良することは執念である。

エンジニアリングはまた、プラグマティックな側面をもっている。エンジニアリングは実務的な仕事でもあるのだ。すでに証明された、科学法則が相手だ。未知への取り組みは、科学という学問に任せておけばよい。エンジニアリングが不可能とされる仕事に取り組むことはあっても、誰も手を染めていない未知の分野を請け負うようなことはしない。

このプラグマティズムに結びついたエンジニアリングは、あまたの技術者魂に浸透していく。エンジニアから転身した実業家は、技術でものを作り出す楽しみが無上のものだと思っていても、金を儲けることが先決であることを忘れない。さらにサンは、高水準の技術ゲームをしているのであるから、サンの経営陣はその技術面をしっかりと把握する必要があった。

ワークステーション市場の景気が停滞したとき、サンのエンジニアの多くは研究室を抜け出して、問題を抱えた部署を訪問した。回路図の代わりに、そこで会社組織図を描いたのだ。また、ソフトウエアのバグ修正には費用がかかるので、できるだけ問題が起こらないように注意した。サンは幸運にも、エンジニアリング経営にかけてはシリコンバレーでも優秀な人材を呼び寄せることができた。そしてこれら優秀な人材は、ラクルートが新入社員向けビデオで説明したビジョンに共感をいだいていた。彼らはみな、頭の切れる技術者の側面と、現実的な実業家の側面がうまくブレンドされていたのである。

ここには三つの興味深い点が示されています。

第一には、サイエンスとエンジニアリングを分けて語っているということ。日本の組織では、この双方がごっちゃになっており、特にエンジニアリング分野が縮小してしまっているように思われます。エンジニア部門は、単なる設計にとどまらず、最新の科学的知見を製品化するという、MOT(Management On Technorogy:技術経営)でいうデスバレー(最新の科学成果と実用化の間にある壁)を乗り越える役割を果たすのですね。

第二に、エンジニアと経営陣の双方が同じことを考えているということ、経営陣は最新の技術面を把握しており、エンジニアは現実的な実業家の側面を兼ね備えているという点が興味を引きます。これは、最近時々聞く言葉「リスペクト」というものでもあるかもしれない。つまり、経営陣はエンジニアをリスペクト(尊敬)してその言葉に耳を傾け、エンジニアもまた経営陣をリスペクトして、その目標達成に力を出す、ということですね。

第三に、エンジアは研究室にとどまらないということ。経営的な問題が発生した時、エンジニアは研究室を抜け出し、問題を抱えた部署を訪問して会社組織上の問題を解決する。問題解決の技法を知っている人は、電子回路の問題でも、業務フロー上の問題でも、同じように解決する能力を持つのですね。

すべてがすべて、とは言いませんけど、特に情報処理関係の技術者には、マネージメントの抱えている諸問題を解決する能力があること、ハマーとチャンピ―の「リエンジニアリング革命/企業を根本から変える業務革新」などで古くから紹介されております。

なお、上記引用で赤字にした部分の末尾は、Google Booksから該当部分を見ますとto attract and promote some of the most competent engineering management in Silicon Valley. These men and women shared, for the most part, the vision Lacroute outlined in the new-emproyee video. They were the right blend of sharpminded technologists and hardheaded businesspeople.” が該当し、エンジニアリング経営」と訳された部分の原文は ”engineering management” ですから、この言葉は日本語では「経営工学」と訳すべきでしょう

経営工学という学問分野は、経営学を理系にしたような学問分野で、数理科学的手法を用いて経営効率の向上を図る分野であり、情報システムの応用もその中に含んでおります。ここでサンマイクロシステムが得た優秀な人材は、エンジニアの中でも特に、経営工学関連のエンジニアであったことから、会社組織上の問題も効果的に解決したということでしょう。

マトリックス組織

前節引用部の最後のパラグラフは、非常に面白い。エンジニアは、研究室に閉じこもっているのではなく、社内の様々な問題解決に協力するというのですね。このような組織のあり方は、「マトリックス組織」と呼ばれるものと同種の性質を持ち、社内の様々な専門家の能力を最大限に生かす、効率的な組織形態となります。

コンピュータ犯罪を取り締まる目的で結成された米国の組織"FCIC"は、このようなマトリックス組織の典型であると、こちらも古い書物ですが、ブルース・スターリングの「ハッカーを追え」では以下のように描写しております。

シークレットサービス,FBI,国税局,労働省,連邦検察局の各支局,州警察,空軍,軍の情報部といった FCICの常連は,しばしば自前でアメリカのあちこちで会議を開く.FCICには資金援助はない,会費を請求 することもない.ボスもいなければ本部もない... 人々はやってきてはまた去る ── 正式に「去った」 人間が,あいかわらずうろついていることもある.誰もこの「委員会」の「会員資格」が実際にどういう ものか,はっきりと説明できない.
...
ここ数年,経済評論家や経営理論家は,情報革命の波が,全てトッ プダウンで集中管理される固定的なピラミッド型の官僚制を破壊するだろうと考えている.高度に訓練さ れた「被雇用者」は,より強い自律性をもって自身の判断と動機によってある場所からある場所へ,ある 仕事からある仕事へと非常なスピードと柔軟性をもって動いていくだろう.「特別委員会」がルールとな り,組織の枠を超えて自発的に人々が集まり,直接問題に取り組んで,コンピュータによって支援された 専門知識をそれに適用し,やがて元の場所に戻っていく.

多かれ少なかれ,連邦のコンピュータ捜査のあちこちで,こうしたことは起こっている.電話会社だけが 異彩を放つ例外だが,それは100歳以上の老人なのだ.事実上,この本で主要な役割を果すすべての組織 が,FCICとまったく同じように機能している.シカゴ対策本部,アリゾナ恐喝対策班,破滅の軍団,『フ ラック』のグループ,エレクトロニック・フロンティア・ファウンデーション ── どれもが,「結束の 固いチーム」あるいは「ユーザーズグループ」のように見え,またそのように活動している.それらはど れも,必要に応じて自主的に発生した電子的特別委員会だ.

同書は1993年の出版ですから、先に引用いたしました「サンマイクロシステムズ」や「リエンジニアリング革命」と時代を一にしております。1990年代は、情報技術が爆発的に進歩した十年紀(ディケード)であり、そこで生まれた新しい企業形態がこれらの書物の描写するものであったのでしょう。

いずれにいたしましても、このようなダイナミックな経営組織のあり方というものは、それぞれの関係者がおのれの専門能力を磨くとともに、これを用いて他人の抱えている問題点も解決しよう、そして経営改善をバックアップしようという意識を持ち、更には、他の部署の人びとに対するリスペクトを忘れないこと、こういったことがあって初めて可能になるものです。

これは、なかなか難しいことであるかもしれませんけど、その難しさを乗り越えてこそ、極めて効率的な組織が可能となる。そしてその基本的な部分は、己の専門能力に自信と誇りを持つこと、他者の専門能力も見極める力をもち、互いにリスペクトすること、まあ、そうしたところから出発するしかないのではないかと思います。

我が国の企業組織でこれが可能か、それが問題なのですが、、、

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