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われ一人とエッセンシャルエゴ

北尾吉孝氏の11/5付けアゴラ記事「主観を追求して客観に至る」へのコメントです。


親鸞の「われ一人」ですね。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり(歎異抄)」です。(参考

同じ考え方は、カントからフッサールに至る、現代哲学の本流でもあります。すべての基礎を、「先験的自我」「超越論的自我」つまりは、「前提として認められた自我」におくのですね。英語で言えば「エッセンシャル・エゴ」。こっちの方がわかりやすいかもしれません。

じつは論理学の教えるところも、自分自身の存在は前提とせざるを得ない。これを「語用論的前提」と呼びまして、自分が存在しないのなら、あらゆる論理は意味を失う。だから、何かを語る以上、おのれの存在は前提となる。

まあでもそれではあまりにも空虚ですから、親鸞あたりに戻るのが良いかもしれません。

そういえば、デカルトも語っておりました。「エゴ・コギト・エルゴ・スム(われ思うゆえにわれあり)」と。この言葉が、地動説とともに、近代思想の夜明けを告げた、というのが人類知性の歴史ではないかな?

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