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否定のし様もない『不可知論』

長谷川良氏の6/10付けアゴラ記事「精神科医フランクルと『モーセの十戒』」へのコメントです。


欧州社会では無神論と有神論の世界観の対立、不可知論の台頭の時代は過ぎ、全てに価値を見いだせないニヒリズムが若者たちを捉えていくという警鐘だ。簡単にいえば、価値喪失の社会が生まれてくるのだ(「“ニヒリズム”の台頭」2011年11月9日参考)。

これはもう、現にそうなってしまったのだから、いまさら何を言っても始まりません。カントが明確に示した「不可知論」は、もはや否定のしようもない。ヒトの認識のメカニズムがそうなっているのだし、量子力学もこの思想を裏付けております。

たとえば、デヴィッド・リンドリー の「量子力学の奇妙なところが思ったほど奇妙でないわけ」などの以下の記述がわかりやすいでしょう。これは、ホイーラーの遅延選択実験の結果を受けての結論で、今日では物理的にも正しいと考えられております。(解説はこちら

原則をはっきりさせられるところまでやってきたようだ。観測するまではなにも実在ではないということである。あるいは、ニールス・ボーアの弟子のジョン・ホイーラーが好んだ言い方をすれば、『いかなる基本現象も、観測された現象になる前は実在の現象ではない』。

測定された、あるいは観測された量だけを扱うことができるという考え方は、強い命令であるようには見えないかもしれない。科学者はいつもそうしているのではないのか。実はそうではない。科学者はほとんどいつも、自分が測定しているものは奥にある不動の実在の一部であり、われわれが徐々にとらえられるようになる客観的な世界が存在するということを想定している。量子力学は、これにノーという。たとえば、光子は干渉実験で実際に両方の部分を通るのだと宣言することによって、波動関数にある種の物理的実在を負わせようとすると、遅延選択実験を理解するのが難しくなる。量子力学のコペンハーゲン解釈と呼ばれるようになったものを支える柱であるボーアの解釈は、見かけよりもずっと厳しい。それは、光子が干渉実験の一方の端から反対側の端へ行くときに何をしたかがわかると思ってはならないと、はっきりと禁じている。

限られた能力しか持たない人が「絶対的な真理を知り得る」などと何故に思えるのか、そちらの方が私には大いなる謎です。カントの不可知論は、未だ信じる人が少ないのですが、もはやだれも否定できない。ちょっとでも考えることのできる人には、明白な事実なのですね。


(6/11追記しました。)

おもしろい文献を見つけましたのでご紹介しておきます。広島大学の後藤雄太氏の書かれた「ニーチェにおける優生思想と<生の肯定>の思想」です。https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00050886

これによりますと、プラトニズムもキリスト教もニヒリズムである。なんとなれば、「本来ありもしない『虚無』なる絶対的存在者や価値を捏造し、そこから生を意味づけようとする『虚無への意志』の発現であり、そこではこの生それ自体は否定されてしまっているからである」と。

プラトニズムやキリスト教の言う絶対的真理が虚無であることは、上のコメントに述べました。虚無にすべてをゆだねるのは、あらゆる価値を否定する行為であり、ニヒリズムそのものであると言えるでしょう。

ガザで進行中の現実に、割り切れないものを感じるのも、じつはこの点であり、ユダヤ教徒やムスリムがそれぞれ絶対的真理に基づく善行をなしている。それぞれが掲げる絶対的価値は、互いに矛盾しており、傍から見れば愚行である。それは、虚無にすべてをゆだねる、価値の喪失そのものなのですね。

カントの思想は、虚無を離れ、語用論的前提である根源的自我の認知する世界を実体とみなし、その上にすべてを構築する。それはニーチェに言わせれば「生」であるわけですね。外部の『真理』という束縛を離れおのれの知性におのれの人生をゆだねる。これがニヒリズムを脱する道ではないかな?

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